文春オンライン

2022/11/14

genre : ニュース, 社会,

 ともあれ、そうして商業都市になった山形は、明治以降もその特徴を維持していく。お城は歩兵連隊の用地に転用され、お城の外にあった武家地のほとんどは桑畑に生まれ変わる。逆に羽州街道沿いの商業地は比較的そのまま残されていった。

線路から透けて見える「武家地の存在感のなさ」

 1901年には山形駅が開業しているが、その場所はすでに歩いてきたとおり、中心市街地だった羽州街道沿いからは少々離れた南西の外れ。そのくらいしか駅を置く場所がなかったのだろう。むしろ、お城の内堀のすぐ脇を線路が通ったあたり、山形における武家地の存在感のなさを象徴しているといっていい。

 山形駅が開業する少し前の1876年には山形県の県庁所在地になり、初代県令三島通庸によって市内の道路整備が強力に推進され、さらに1911年の大火を経て、1916年にいまは文翔館になっている旧県庁舎も完成。そうしていまに通じる山形の市街地の形が確立されていった。

 旧県庁舎からまっすぐ羽州街道を南に進み、七日町の交差点を左に曲がると、その道は「シネマ通り」などと名付けられていた。どこを探しても映画館などは見当たらない。が、どうやらこのあたりは山形県下でもいちばんの映画の町として賑わった過去があるようだ。

 

 大正時代、本格的に日本に映画が入ってきた頃からこの一角には映画館が(というか当時は活動写真館)が進出。中でも1917年に開館した旭座はシンボル的な存在となり、運営体制の変遷もありつつ2007年まで続いていた。

 戦後の映画産業全盛期、昭和40年代には16もの映画館がこの通り沿いに集まっていたというから、まさに一大映画の町だ。いまは映画館はすべてなくなってしまったが、そうした歴史に敬意を表し、シネマ通りと名付けているのだ。

SL時代には12時間かかっていた東京との往来。しかし今や…

 このように、山形の町は良くも悪くも旧県庁舎を頂点に、そこからまっすぐ伸びる羽州街道(国道112号)沿いの七日町・十日町を中心に発展してきた。

 江戸時代にはお城、近代以降は駅という町の中心になり得るものがありつつも、それとは別の市街地の発展ルートを辿ってきたということなのだろう。近世以来の“商都・山形”の個性がそこにあるといっていい。

 

 とはいえ、お城はともかく鉄道の存在もなかなかのインパクト。1967年に完成した駅舎にはステーションデパート(駅ビル)も入居。駅周辺の開発も進み、香澄町一帯が七日町・十日町に並ぶ繁華街へと成長していった。

 駅前の大通りも拡幅され、商業ビルも目立って増えてゆく。戦後の高度成長期に至って、山形の町は山形駅も新たな市街地の核として存在感を示し始めたのだ。

 それには、ひとつに奥羽本線の輸送力向上によって東京方面とのアクセスが大幅に改善されたことが関係していそうだ。