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「監督、これ以上やってしまうと」平手打ち、キック、また平手打ち…闘将・星野仙一の「熱血指導」が生んだ中村武志“流血騒動”の顛末「質量ともにあの時がナンバーワンでした」

2022/11/15

 皆さん、こんにちは。中村武志です。

 前回(「娘さんからは『毎日叩かれてきてね!』と…」星野仙一に日本一“鉄拳制裁”を受けた“球界の殴られ屋”が明かす「鬼と仏の素顔」)お知らせしたように、今回は“鬼”の星野さんのお話。それも最も壮絶だった体験談をご紹介したいと思います。あれは星野さんの中日監督就任2年目の1988年のことでした。

管理人に駐車場での練習交渉

 その前に、当時の私がどのような立場の選手だったかに少し、触れておきます。前年の87年、私はそれまで全く芽が出ず、解雇もちらつき始めていたのですが、星野さんの薫陶を受けたことで、プロ3年目にして1軍で初出場を果たし、43試合に出ることができました。

星野仙一氏 ©文藝春秋

 それでも、正捕手へは道半ば。88年も87年と同様にキャンプから無休で、ドラフト1位で入団したばかりの立浪(和義=現中日監督)とともに練習に明け暮れていたのです。もちろん無休は星野さんの厳命。たとえビジターの試合でも、誰が場所を探してくるのか、公園、河川敷などでランニングや素振りを欠かすことはありませんでした。

 とある地方遠征で、例によって私と立浪はチーム宿舎の駐車場でキャッチボールから練習を開始していました。すると管理人さんに、すぐにやめるよう注意されたのです。一応「僕らはプロだから車に当てることはありません」と形だけの抵抗は試みましたが「プロでも駄目なものは駄目!」と一蹴されました。

 管理人さんのおっしゃる通りです。私たちはこれ幸いと、練習をやめて帰ろうとすると、いらっしゃったのです。星野さんが。

中村武志氏 ©文藝春秋

 星野さんは、私たちに無休で練習を命じた責任感からか、それまでも頻繁に視察に来られていました。私たちと管理人さんのやり取りを見ていたのでしょう。駐車場での練習を許可するよう交渉に乗り出してきたのです。

 2人の話し合いを遠巻きに見ていましたが、それはそれは、もうあっさりと許可が下りたわけです。星野さんの知名度の高さか、巧みな話術か、それともお小遣いでも渡したのでしょうか。いずれにしても、あっけなく無休のシーズンが継続したのです。

星野さんは来ないとの下調べも……

 前振りが長くなりましたが、ここからが今回の本題。確か暑い時期に差しかかった、チームの試合がない日のことでした。私と立浪は自分たちを奮い立たせて重い腰を上げ、現在のナゴヤ球場の敷地内に移転する前の合宿所「昇竜館」の室内練習場で汗を流そうとしていました。