酒井は、《郷ひろみのプロデューサーにおいて、私はつねにひとつのことを念頭においていた。それは彼の音楽的な進歩とかかわりなく、「娯楽性」を持ちつづけることであった。大衆から離れていっては郷ひろみのよさは失われてしまう。娯楽の域を出すぎてしまっては、郷ひろみという存在の本質を見失ってしまう》として、年に1回は大娯楽といえる企画を立てて実行したと、著書に書いている(『アイドルの素顔』)。デビュー曲の「男の子女の子」も、樹木希林と歌った「林檎殺人事件」(1978年)も、そして「お嫁サンバ」もこの路線から生まれた。
「ジャパン」ではなく「ジャパァーン!」と歌うわけ
「お嫁サンバ」は酒井の言ったとおり、郷の代表曲として世の中に浸透した。この経験があるからこそ、その後の郷は大娯楽路線にも抵抗せず、進んで楽しめるようになった。「2億4千万の瞳」(1984年)で「ジャパァーン!」と歌うのも、ただの「ジャパン」ではなく誇張しないと耳に残らないと思い、そうなったのだという(『婦人公論』2007年6月7日号)。この路線はいまなお、今年リリースの「ジャンケンポンGO!!」や、にしたんクリニックのCMソングなど脈々と続いている。
紅白への連続出場は2001年に一旦区切りがつけられる。歌唱力をもっと向上させようと郷が翌年より再び芸能活動を休止して渡米したためだ。それから3年間、多くの世界的な歌手を指導するボイストレーナーについてみっちりとレッスンを積む。
郷のなかでは、歌のベーシックなテクニックは身につけたけれど、それを超えたところで人を感動させられるよう、もっと勉強して自分の内面を豊かにしたいという思いがあった(『ステラ』2002年1月4日号)。1998年には渡米を決意したものの、その後、「GOLDFINGER’99」のヒットによりさまざまな状況が好転して、ちょっと気持ちが揺らいだ。そもそも、当時40代になっており、渡米してその後「郷ひろみ」として戻ってこられる保証はどこにもなかった。それでも彼は最終的に行く道を選ぶ。
《むしろアメリカに行かずそのまま日本にいれば、50代でもなんとなく仕事はやれたと思う。でもそうやって誤魔化しながら50代、60代を過ごすのは納得できない。それよりアメリカに行ってダメでも、後悔はしないだろうなと思ったんですね。結果的に行ったことですごい先生と巡り会えて、ネットワークも作れた。財産ですよ》とは帰国後の発言だ(『週刊ポスト』2008年5月9・16日号)。