交際中だった松田聖子との“対戦”
この年、交際中だった近藤真彦と中森明菜のほか、郷と松田聖子の対戦が組まれた。とくに郷と松田は結婚間近いと噂されていただけに、スタッフからは「話題づくりに、舞台で結婚宣言を」との要求も出たが、白組司会を務めたNHKアナウンサー(当時)の鈴木健二が断ったという。練習を見て、2人は結婚しないなと直感したのがその理由だと、後年鈴木は明かしている(『朝日新聞』1999年12月13日付夕刊)。実際、翌1985年の年明けには2人の破局があきらかとなった。
郷は松田との交際とは別に、かねてよりアメリカ留学を考えていた。それがようやく1986年に実現にいたり、芸能活動を一時休止する。これにともない紅白出場は1985年を最後として、今後は辞退すると宣言した。すでにこの数年前から、テレビのベストテン番組やレコード大賞などの賞レースを辞退していた。彼はその理由について、《自分の歌っている作品は、自分にとって何より大切なものばかり。それを他と比較され優劣をつけられるのは、僕には納得出来ない》と周囲のスタッフに語っていたという(酒井政利『アイドルの素顔』河出文庫)。
「紅白辞退」を宣言し、単身渡米
それ以外にも、「自分は歌えていない、踊れていない、表現力が足りていない」との危機感が30歳を前にして強くなっていた。すでに19歳のときに米ニューヨークで初めてダンスレッスンを受けて以来、毎年のように渡米し、歌を含めレッスンを重ねていたとはいえ、進歩がなかなか見えず、一朝一夕では身につけられないと痛感する(郷ひろみ『黄金の60代』幻冬舎文庫)。また、自分の幅を広げるため英語や社会についても学ぶ必要があると思うようになっていた。そこで覚悟を決め、単身渡米したのである。
それから1年間は大学などで学び、翌1987年に最初の結婚をすると、ニューヨークに居を構えた。NY在住中には新たな道を切り拓くべく、NHKのBSで現地の情報を伝えるキャスターを務めたほか、1988年から翌年にかけて「紐育(ニューヨーク)日記」と題するエッセイを週刊誌で連載した。そのある回では、もしも自分に紅白のようなショーを企画させてくれたなら……との想定のもと、次のようなアイデアを提示している。
《第一に時間を無制限にする。たとえば七時から始めれば十二時くらいには終わるでしょう。大晦日の晩くらい思いっきりよく、それぞれの出演者が存分にショーを盛り上げることができるようにという狙いです。(中略)それから観に来る男性はすべてブラックタイで、なんていうのもシャレていると思います。ショーというのは、参加意識が大切。年に一度の大イベントです。幸運にもショータイムを共有できる人たちなのですから常になくドレスアップしてみるのも楽しいものです。/そしてもうひとつ、ぜひ実現したいのが、禁煙楽屋を設けること。アメリカでは今年から、飛行時間二時間以内の飛行機はすべて禁煙となり、嫌煙権が強い世の中になっています。多くのビッグな歌手を集める楽屋のこと、それくらいの気遣いは必要です》(『紐育日記』朝日文庫)