“団地”のイメージを覆す「光が丘」の光景。この町に何が…?
“団地”というとその多くは高度経済成長期の人口急増に合わせて建設されて入居が進み、それから時代が進んで今となっては高齢化が課題に……などというイメージももたれがちだ。実際、都市部から少々離れた団地を歩くと、高齢者の姿が目立つ。
ところが、光が丘は1983年に入居が開始された比較的新しい団地であり、さらにかくのごとく公園に恵まれ、さらに大江戸線のおかげで都心へのアクセスも超良好。そうした事情からなのだろうか、平日の真っ昼間なのに町中、とりわけ光が丘IMA周辺などはたくさんの人で賑わっている。
もちろんお年寄りもいるが、小さな子どもを連れたお母さんも多いし、若者たちの賑やかなグループも見かける。エリア内には小学校や中学校が複数あるという点からも、活気に溢れた町であることが窺えるというものだ。
団地といいながらも正式な名は光が丘パークタウン。確かにその名の方が、この町の明るい雰囲気によく似合っている。
しかし、いったいどうしてこれだけ都心に近い場所にたっぷりと公園を確保した巨大団地が、それも高度成長も終わって久しい1983年という時代に生まれたのだろうか。光が丘からそれほど離れていない高島平は1972年の入居開始。これでも遅い方で、赤羽台は1960年代に入居が始まっている。
この答えは、団地以前の光が丘にあった。光が丘の団地が生まれる前、この一帯はグラントハイツと呼ばれるアメリカ空軍の宿舎だったのである。
さらにさかのぼると、昭和の初め頃までは当時の東京市にすら属していない、東京府北豊島郡の田舎町に過ぎなかった。練馬名物、練馬大根の畑が広がるような田園地帯が広がっていたのだ。
その頃の地名はもちろん光が丘ではなく、高松や田柄、土支田などと呼ばれていた。太平洋戦争がはじまる一時期には、広大な緑地公園を整備する計画まであったという。
戦争で一変、航空基地の町へ
ところが、戦争がはじまると状況が一変。1942年4月にアメリカ軍初の日本本土空襲であるドーリットル空襲が東京を襲う。それを受けて、陸軍が帝都防衛のために航空基地を建設した。その場所がいまの光が丘一帯だ。
成増飛行場と名付けられたこの航空基地は、近隣の在郷軍人や青年団に加え、学生たちや囚人まで動員して昼夜兼行で建設。完成後は陸軍飛行第47戦隊が置かれ、二式戦闘機鍾馗が70~90機配備されている。さらに終戦間際には震天制空隊が置かれて特攻隊の基地にもなった。成増飛行場から出動してB29に体当たりをした若き特攻隊員たちも少なからずいたようだ。
そうした軍の用地は、戦争が終わるとおしなべて米軍に接収された。飛行場の跡地をまるごと将兵のための家族宿舎とし、1947年にグラントハイツと名付けられている。南北戦争で名を馳せたグラント将軍(第18代大統領)にちなんだものだという。
さらにこの頃には東武鉄道がグラントハイツに暮らす米将兵のための鉄道路線も建設している。東武啓志線といい、通称は“ケイシー線”。グラントハイツの建設を指揮したケイシー中尉にちなんだというが、本当のところはよくわからない。