1973年に全面返還、急速に変わる町並み。しかし足りないものが…
こうして練馬の北に広大な米兵宿舎が生まれたのだが、日本が独立を果たしてさらに経済成長を成し遂げると、マンモス首都の近郊に広大な米兵宿舎があるというのはさすがに……という話になってくる。ちなみに、代々木公園もかつては米兵の宿舎だったが(ワシントンハイツ)、こちらは1964年の東京オリンピックにあわせて返還されている。
そこで1960年代から返還運動がはじまり、1973年になってようやく全面返還が完了。返還運動が高まりを見せていた1969年には住居表示が実施されて「光が丘」の名も得ている。光が丘というといかにも団地に合わせて名付けられたような印象を持ってしまうが、実はそれ以前からのものなのだ。なぜ光が丘になったのかはよくわからないが、返還、そして開発への希望を込めたのだろうか。
1971年に返還が合意されてから進められてきた跡地の開発計画は、半分を公園にして半分を団地にするというものだった。本格的な開発がはじまったのは返還後しばらくした1977年以降。1981年には光が丘公園が開園し、1983年から都営住宅・公団住宅の入居がスタートする。
ただ、公共交通という点ではなかなか恵まれていなかった。ケイシー線が残っていればそのまま使えたところだろうが、とっくの昔の1959年に廃止されている。だから光が丘の人たちはバスで練馬や成増、豊島園などに向かって、そこから西武線や東武線に乗り継がねばならなかった。
地下鉄路線を切り拓いた「光が丘」のインパクト
そんな中で、ようやくマンモス団地の中まで乗り入れてきた鉄道が、都営地下鉄大江戸線。1991年、都営12号線といっていた時期の開業である。
大江戸線の計画は1960年代から存在しており、正式に決まったのは1972年のこと。返還が決まったグラントハイツ跡地の開発に向けて、交通網の整備も急務と判断されたのだろう。
ただ、財政事情の悪化などから着工には至らず、一時的には計画そのものも凍結されてしまう。
復活したのは公園も団地もできて賑わいが生まれていた80年代半ば。1986年に練馬~光が丘間が着工され、1991年に開業したのである。つまり、生まれて間もない光が丘の賑わいが、大江戸線の建設を促したといっていい。それだけインパクトのある、広大な再開発だったのである。
その後の光が丘と大江戸線は、ここまで歩いてきたとおりだ。90年代には子どもの数が減少して問題になるなどもしているが、他の団地と比べればだいぶマシ。大江戸線の終着駅であることも、知名度のアップに貢献していることだろう。
そして別に団地が目的でなくても、休日に光が丘公園を訪れれば、穏やかな時間が過ごせるはずだ。大江戸線、団地から都心への通勤路線などという単純なものではなく、光が丘ともども思いのほかポテンシャルがあるのかもしれない。
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