いまや年末の風物詩である「M-1グランプリ」。一夜にして富と人気を手にすることができるこのビッグイベントに、「ちゃっちゃっと優勝して、天下を獲ったるわい」と乗り込んだコンビがいる。2002年から9年連続で決勝に進出し、「ミスターM-1」「M-1の申し子」と呼ばれた笑い飯である。
ここでは、笑い飯、千鳥、フットボールアワーなどの現役芸人やスタッフの証言をもとに、漫才とM-1の20年を活写した中村計氏のノンフィクション『笑い神 M-1、その純情と狂気』(文藝春秋)から一部を抜粋。稀代のプロデューサー・島田紳助のアイデアによってM-1が誕生するまでの経緯を紹介する。(全4回の4回目/3回目から続く)
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「M-1」プロジェクトのエンジンに火が入った島田紳助の言葉
「賞金をな、1000万にするんや」
芸人であり、かつ天才的プロデューサーでもあった島田紳助の口から、その案が漏れたとき、日本最大の漫才コンテスト、「M-1」プロジェクトのエンジンに火が入った。
2001年春、吉本興業の社員だった谷良一は、極めて困難なミッションを背負わされていた。
漫才をなんとかせよ──。
その頃、漫才の未来には希望の破片すら落ちていなかった。そんな状況下、漫才の再建を託されたのが、それまで横山やすし・西川きよし、オール阪神・巨人といったスター漫才師たちのマネージャーを歴任してきた谷だった。京大出身という高学歴ながら、親戚たちの反対を押し切って吉本に入社したという変わり種でもあった。
たった1人の新部署「漫才プロジェクト」に異動となった谷は、漫才愛の深さにおいては人後に落ちない人物だった。
「吉本の柱は、漫才と新喜劇。なので、同時に『新喜劇プロジェクト』というのも発足したんです。やっぱりお客さんの入りがよくなかったので。新喜劇はチームだったんですけど、漫才は他のメンバーは誰や思ったら『お前1人や』と。そのあと、すぐにもう1人、付けてくれたんですけど」
谷は現在、吉本を定年退職し、地元の奈良で趣味の油絵などを嗜みつつ、悠々自適な暮らしを送っている。
最初の取材時、1時間ほど時間を欲しいとリクエストしたところ、谷は、1時間ではとても話し切れるものではないと3時間も時間を空けてくれた。一見、無口そうにも見えるのだが、M-1のことなら、漫才のことなら、話が尽きることはなかった。
「M-1が始まったばかりの頃は、毎年、できる範囲で予選は全部回ってました。毎年、3000本くらいはネタを見たんじゃないですか」