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漫才のルーツと変遷

「漫才」は、そもそも「万歳」と綴った。万歳は平安時代にルーツを持つ音曲芸能である。吉本興業は昭和8年、それに「漫才」という字を当て、伝統文化の換骨奪胎をはかった。「漫」という字は、当時、子どもたちから絶大なる人気を誇っていた「漫画」から取ったものだ。そこから漫才は急速に装いを変化させていく。衣装を和服から洋服に変え、楽器は鼓(つづみ)などからギター等に持ち替えた。

©文藝春秋

 昭和初期、漫才と言えば、まだ何かしら楽器を手にしていたものだったが、昭和12年に「上方漫才の宝」と言われる夢路いとし・喜味こいしがデビューし、彼らのしゃべりだけで笑わせるスタイルが浸透するにつれ、楽器や小道具は一切使わない漫才こそが本寸法だという認識が定着したのだ。

 必要なのは、マイク1本のみ。その手軽さも相まって、漫才は、寄席(365日営業の大衆演芸の劇場)や営業(地方等での演芸公演)を屋台骨とする吉本にとって、なくてはならない「商品」となっていった。

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 M-1以前、ほんの一瞬だけ、漫才はエンターテインメント業界の頂点に立ったことがある。1980年にフジテレビで始まった『THE MANZAI』が火付け役となり、「漫才ブーム」が巻き起こったのだ。そこから一気にスターダムにのし上がったのがB&Bであり、島田紳助・松本竜介であり、ツービートだった。しかし、1982年に同番組が終了すると、漫才は一気に下火となる。90年代に入ると、漫才番組は本場・関西では命脈を保っていたものの、関東ではほぼ絶滅状態となる。

 谷は漫才ブームの真っ只中、1981年に吉本に入社している。

「漫才ブームのときは、一瞬にして飽きられてしまいましたね。出ている漫才師がいつも同じだったから。彼らも息切れしちゃったんですよ。それから20年間、漫才は忘れられた存在でした。『漫才=古いもん』というイメージが完全に定着していましたから」

 漫才の質も低下していた。ダウンタウンを輩出した伝説の劇場「心斎橋筋2丁目劇場」では、業を煮やした当時の支配人が「漫才禁止令」という大ナタを振るった。一種のカンフル剤だったとはいえ、漫才を根絶やしにしかねないほどの劇薬でもあった。