その頃、2丁目劇場に出演していたテンダラーの浜本広晃が当時の状況を思い出す。テンダラーは華のある中堅コンビで、関西の劇場では準エースといっていい存在だ。
「漫才禁止令、ありましたねえ。あの頃の若手って、うだ話をよくしてたんですよ。出て行って『昨日さ、誰々と飲みに行って、こんなことあってさ』『マジでー』みたいな。その日のノリだけでしゃべる。ダウンタウンさんの影響もあったんでしょうね。フリートークみたいな感じの漫才で、ネタかと言えばネタじゃない。
だから支配人は、若いうちからそればっかりやってんのはどやねん、と。ネタをちゃんとせなあかんやろということで漫才を禁止にしたんでしょうね。僕の勝手な解釈ですけど。だから、ほんまはフリートーク禁止にすればよかった。しっかり漫才をやってたコンビもおったんで」
「賞金1000万円の漫才コンテストを開催する」紳助の腹案
漫才を何とかしたいという思いは人一倍強かった谷だが、気持ちだけで何とかするには現実はあまりにも厳しく、すぐに行き詰まった。
そんなある日、読売テレビに足を運び、かつて担当していたタレントの間寛平の楽屋を訪ねた。どこかで話し相手を欲していた。ひとしきり話をし、部屋を出たとき、隣の楽屋の「島田紳助様」という貼り紙が目に入った。せっかくだから、紳助にも話を聞いてもらおうと部屋の扉をノックした。
現状を報告するなり、意外な反応が返ってきた。
「『ええやん!』って、すごい喜んでくれて。『やってや』と。というのも、紳助さんは漫才に対して、すごく負い目を感じていたんです。だから『漫才に恩返しをしたいんや』と。同志を得たようで、僕も、すごい嬉しくなってしまって」
紳助・竜介は漫才ブームの立役者だった。だが、それから間もない1985年、結成から8年足らずで解散してしまう。その後、紳助は漫才で獲得した知名度を生かし、名MCとして大成功を収めていた。それだけに、漫才を踏み台にした、という苦い思いを抱き続けていたのだという。
紳助の収録時間が迫っていたため、そのときは、谷と紳助は30分ほどしか話せなかった。数日後、谷が改めて会いに行くと、紳助はさっそく腹案を携えていた。それが賞金1000万円の漫才コンテストを開催するというものだった。
「めちゃくちゃびっくりしましたね。コンテストをやるって言ったときは、普通やなと思ったんですけど、賞金を聞いて、それはおもしろい、と」
今や、お笑いのコンテストにおける「優勝賞金1000万」は、むしろスタンダードだ。だが当時は、まさに破格だった。
第3回大会からM-1のチーフプロデューサーを任されることになる朝日放送の森本茂樹が、そのときの衝撃の大きさを振り返る。