「ありえないですよ。当時は新人賞と言えば、だいたい50万くらいが相場だった。その20倍ですから。今でいったら、1億とか2億くらいのインパクトでしょうね。いや、衝撃度合いだけで言えば、10億と言われたぐらいの驚きがあったかな。もう、『えーっ!』って感じでしたから。なんや、それ、と。紳助さんはやっぱり頭ええなと思いましたね。金額どうこうじゃない。まずは話題性ですよ」
M-1は、K-1のような「ガチンコ勝負」を目指した
谷によれば、そのとき、紳助の中で大会の骨子はほぼ出来上がっていたという。
「M-1という大会名も決まっていました。K-1からパクったんです」
折しも世の中はK-1ブームの真っ只中だった。K-1とは、1993年に始まったキックボクシングの格闘技イベントの名称である。そこに漫才の頭文字「M」をかぶせた。
K-1が一世を風靡したのは、筋書きのあるプロレスとは違い、「ガチンコ勝負」だったからだ。M-1が目指したのも、そこだった。
紳助は審査方法についても明確なイメージを持っていた。紳助には、自分が若手漫才師だった頃、コンテストの審査結果に納得がいかず、何度となく、怒りに打ち震えた経験があった。谷が代弁する。
「その頃の審査員というと、実際、漫才をやったことのない人が多かったんですよ。作曲家とか、大学の教授とか。いわゆる文化人。ネタが終わると、いったん別室に下がって、しばらくしてから結果が出る。どういう経緯を経たかも、まったく見えない。力のある構成作家がおったら、こいつで決まり、みたいなこともあった。人気があるとか、会社が推してるとかいう理由でね。そうじゃなくて、もっとちゃんとした人に、その日の漫才の出来のみで、その場で点数を出してもらおうと」
賞金も規格外だが、「やらせ」同然の過剰な演出が当たり前になっていたテレビの世界で、筋書きのない漫才コンテストを開催するというのは、それ以上に型破りなことだった。紳助も、谷も、大会に命を吹き込むためには、賞金の多寡よりも、こちらの方がはるかに重要なことだと思っていた。
慧眼だったのは、名前を格闘技イベントに似せただけでなく、演出もそれにならったことだった。
第1回大会の記者会見で、大会委員長の紳助は口角泡を飛ばし、「単なる漫才番組ではないです。命をかけた、格闘技」とぶった。
紳助は誇張したのではない。本質を暴いたのだ。
関西における「お笑い」とは──。
誤解を恐れずに言えば、ケンカである。
笑い飯や千鳥周辺の取材をしていて、つくづく思った。あの時代、彼らの世界で「誰がいちばんおもろいか」を競うことは、「誰がいちばんケンカが強いか」を競うのとノリがそっくりだった。
尖っていてナンボ。芸人の世界で「尖っている」とは、ことさら反抗的で、無遠慮で、不遜な態度をとることである。