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 現に、香織さんは気づきはじめているようだった。その証拠に、こう話したことがあった。

「高畑先生は、すごく話を聞いてくれる。先生の娘さんは、いいなと思った。先生も怒ることはあるし、怒ると怖い。だけど、心配してくれているから怒るんだと思う。怒るっていうか、𠮟ってくれるっていうか。先生は、娘さんが学校から帰ってくると、学校でなにがあったとか、お友達とはどうしたとか、そういうのを話すって言ってた。

『お母さん』って、あんな感じなのかな……」

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無関心という虐待が心に残す傷

 ここまで紹介してきた事例は、いずれもとても静かで、穏やかで、一見しただけではわかりにくい情緒的ネグレクトというものだった。衣食住、必要な医療や教育も最低限は提供されている。だから、目に見える形で家庭のなかの異常があきらかになることは、ほとんどない。

 だが、子どもの心には確実に傷をつくる。それは大人になっても残り続ける。

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 もうひとつ事例を紹介する。

 子どものころに母親が、自分の気持ちに対して反応してくれなかったという心の痛みと孤立感を話してくれた30歳の女性がいた。

「お母さんは、やさしかったです。いつも笑っていたので。だけど、ときどき虚しい気持ちになることがありました。暖簾に腕押しというか、手応えがないというか。私のことをどう思っているのか、わからないというか……。

 小学生のころ、家の前の通りで、ひとりで遊んでいたんです。そこに、スピードをだした車が通ろうとしていました。なんだかわからないんですけど、もし私が轢かれたら、お母さんが心配してくれると思ったんです。それで、自分から轢かれに行きました。車が急ブレーキで避けてくれたので大事にはなりませんでしたけど、転んで膝をかなり擦りむきました。変ですけど、たくさん血が出ているのを見てうれしかったんです。そのまま走って玄関に行き、お母さんを呼んで、車に轢かれたと言いました。居間から出てきたお母さんは、『そうだと思った。だって、すごい音がしたもん』と言って、また居間に戻ってテレビを観ていました。私は、ひとり、お風呂場で自分の膝の血を洗い流しました。

 ちゃんとご飯はあったし、洋服もあったし、だから、虐待ではないと思うんです……」

 このように、すーっと気持ちが肩透かしを食うような無関心が主体の虐待は、子どもの心に静かに傷をつくり、そして奇妙な矛盾を抱かせる。

 ちゃんと、ご飯も洋服も住む家もあった。大人になるまで育ててもらった。だから、「お母さんは、やさしい」と彼らは「翻訳」する。心配してくれない母親がやさしいわけがないのだが。

──これは、孤立で折れそうな彼らの心を支えるのに必要な説明である。

 しかし、裏を返せば、こう言うこともできるだろう。

 ご飯と洋服と住む家しかなかったのである。