自分がこうだと思い込んでいたものが実は違ったと分かった時、驚きとともに、なぜそこを疑いもせず過ごしてきたのか不思議になる。
1888年のイギリス・ロンドンで起きた、ある有名な連続殺人事件。犯人は、「切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)」。そして、喉をかき切られた5人の女性たちは、いずれも「売春婦」だと“されてきた”。
ところが驚くことに、その大前提が違っていた。被害者全員が「売春婦だったと示唆する確固たる証拠はない」というのだ。本書は、切り裂きジャックの正体を推理するものではない。これまで「ただの売春婦」としか認識されていなかった被害者5人の人生を、検死審問をはじめ、当時のさまざまな記録から丹念に拾い上げ、まとめたものだ。
かつては夫と子供に囲まれ、安定した暮らしを得ていた者もいた。当たり前だが彼女たちの人生はそれぞれだ。しかし、切り裂きジャックと思しき何者かに人生を突如終了させられたことだけが共通項かといえば、そうではない。5人のほとんどは労働者階級の家に生まれ、逆境の中で人生を開始した。そして皆、死別やアルコール依存など、さまざまな事情から家族と離れ離れになり、貧困者が集まる地区のなかでも環境が劣悪で「地獄の最下層」とされるホワイトチャペルにたどり着いていた。
事件当時、新聞各紙は、「ホワイトチャペルのロッジングハウスは『名前以外実質的に売春宿』であり、そこに住む女性は、ごく少数を除いて全員売春婦だと繰り返し断言」していたという。そこから見えてくるのは、貧困者とは「怠惰で堕落した存在」という意識、「『家のない者』と『売春婦』は、その道徳的欠陥においてまったく同一」という価値観。そして当時、女性がどう見られ、扱われていたかという社会の姿だ。
配偶者からのDVは“しつけ”として許容されるべきものであり、また性交を拒んだり生意気な口をきいたりすることは許されない。教育を受ける機会も、高い賃金を得られる仕事もほとんどなく、たとえどんな事情があろうと配偶者の元を去れば、女性の方がふしだらな社会不適合者とみなされる。独身となれば、さらに屋根のある場所で寝るという環境を確保することすら難しくなり、命の危険やレイプ被害から身を守るために早急にパートナーを見つける必要に迫られる。
彼女たちは皆、ハードな時代を懸命に生きたひとりの人間だったのだ。にもかかわらず、社会が貼ったレッテルはこうだった。
“殺されたのは、怠惰で貧しい、ふしだらな女たち”。
事件が起きれば社会は、理由を探そうとする。そうして作り上げられた物語には、時折偏見が紛れ込む。本書は、“事件の被害に遭った女性を貶める言説を流す”社会への抵抗の書であり、彼女たちの「尊厳」を取り戻そうとした著者の熱意の結晶でもある。
Hallie Rubenhold/社会史家、著述家、ブロードキャスター、時代考証家。特に18、19世紀英国の女性の生活を専門とし、これまで歴史の影に埋もれていた女性たちに光を当ててきた。
たかはしゆき/1974年、福岡県生まれ。裁判傍聴を中心に事件記事を執筆する、フリーライター。著書に『つけびの村』など。