それにしても、なぜ少年審判記録はこうも大量に捨てられてしまったのか。
私自身が裁判記録保存の問題に関わってきて感じるのは、司法関係者にとって裁判記録は、裁判や審判、その後の行刑や保護処分など、自分たちの仕事に使う実務文書としての認識しかないのではないか、ということだ。
裁判の記録を残す意味
判決や決定などの結論が出て、保護処分や刑事罰などの執行が終わった後のことにはまったく関心がない。あるいは意味なく場所を塞いでいるゴミ同然の紙の塊に見えるのだろう。なので、法令で定められている期間は保管・保存をするものの、それを過ぎれば早々に捨てることにためらいがない。保管スペースには限りがあり、年々新たな事件記録が生まれるので、用済みのものは早く処分したい、ということになるのだろう。
しかし、実務文書としての役割を終えた後も、裁判の記録は歴史文書としての意味を持つ。そこには、司法制度や事件・事故の態様、精神鑑定や様々な科学鑑定のほかに、人々や組織の様々な営み、社会のありようや世相・風俗、その時代の価値観などについての記載も詰まっている。神戸連続児童殺傷事件のように、社会への影響が大きい事件の記録はなおさらだ。
司法判断への信頼維持のために
審判が非公開である少年事件の場合、すぐに記録を利活用することは難しいにしても、これから50年、100年と時が過ぎて、関係者がこの世にいない時がくれば、プライバシーのハードルも変わるだろう。
江戸時代の裁判の記録が、当時の社会や価値観を知るうえで役立つように、100年先、200年先の人たちが、昭和、平成、令和という時代を知り、日本の社会のありようを考える時に、現代の裁判記録は大事な史料となるだろう。しかし残念ながら、裁判所や検察庁という組織は、そのような未来の目を持たない。
また、裁判所がどのようにして加害者を特定したのか、というプロセスが、検証可能な形できちんと残されていることは、司法判断への信頼維持のためにも重要だ。