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Aさんが記録の廃棄についてツイートすると、拡散されて話題に

 私は、横浜の神奈川大学で「社会と人間」という講座名でカルト問題を教えているのだが、Aさんは単位互換制度を利用して、この授業を受講。毎回最前列で聴講する、熱心さだった。そんなAさんは、裁判の記録についてこう語る。

「裁判所がちゃんと残しておくことに、意味があると思うんです。日本の社会は、いろんな事件があるたびに、コツコツと裁判をやったり、法律を作ったりして、今があるわけですよね。僕たち若者は、オウム事件など昔の裁判を見ることはできない。だから、記録を見ることで、追体験したり学んだりしたいんです」

 私は、オウム事件に関わってきた1人として、Aさんなど事件後に生まれてきた人たちにこの記録を残せなかったことを、本当に申し訳なく思う。

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 Aさんはツイッターで記録の廃棄を報告した。それが拡散されて話題となり、マスメディアも相次いで記録廃棄を報じた。メディアが関心を持ったのは、まさに今、解散命令請求を視野に、世界平和統一家庭連合に対する文部科学省の調査が行われているからだろう。

「法令に違反し、著しく公共の福祉に害する行為をした」との理由で解散命令が出されたのは、オウムが最初。政府が当初、旧統一教会に対する調査に消極的だったのは、このオウムに対する高裁決定の中にある、「刑法等の実定法規の定める禁止規範または命令規範に違反する」という基準に縛られていたためだ。

江川紹子氏

「時期が来たら捨てる」から「基本的にはまず残す」へ

 今の政府をも縛る基準は、どのような主張や証拠によって導き出されたのか。記録には、解散命令を請求し、様々な証拠を出し、主張を展開した東京地検や東京都が出した書面なども綴じられていたはずだ。ところが、記録が廃棄されているために、それが確認できない。それどころか、解散命令の決定すら、原本はすでにないのだ。

 オウムに次いで解散命令が出された和歌山県の「明覚寺」の事件も、和歌山地裁が記録を廃棄していた。参考になるだろう2つの前例の記録がいずれも廃棄され、統一教会に対する判断は、何もない状態から行わなければならない。

 ちなみに、過去に行われた旧統一教会関連の刑事裁判の記録も、すでに廃棄されている。裁判記録の廃棄は、歴史史料の廃棄であり、先人たちによる判断の過程という歴史を捨てることに等しい。

 今後、この愚を繰り返さないためには、民事、刑事、少年事件ともに、裁判記録は今のような「時期が来たら捨てる」から「基本的にはまず残す」へと、原則の転換が必要だ。特に残すものについて検討するのでなく、捨てる時に「本当に捨てていいか」を責任ある立場の人がチェックする。そのうえで残した記録を国民がもっと利活用できるようにする。「国民共有の知的資源」としての司法文書のあり方を、今度こそ考える機会にしてほしい。