そのうち熊五郎と羆は絡み合うように山の斜面を駆け上っていき、やがてヤブの中へ消えてしまった。
「仕方ねぇから上がるか、となったんだけど、急斜面にヤブがびっしり生えて、全然進めないのさ」
1時間近くもヤブと格闘していると、やがて熊五郎が戻って来た。「ああ、ダメだったか」と中川らが帰ろうとすると、熊五郎はまるで「違う。こっちだ!」とでもいうように顎である方向を指し示すのである。半信半疑で中川らがついていってみると、やがて熊五郎が立ち止まって見上げた木の枝に1頭の子羆が登っているのが見えた。熊五郎に追い立てられたのだろう――と思ったのも束の間、突如、唸り声が響きヤブの中から体重200キロほどの羆が跳び出してきた。樹上の子羆の母羆であろう。
熊五郎は即座にこれに反応し、母羆にかかっていく。母羆の爪による攻撃を巧みに躱しながら、盛んに吠えたて、その場に足止めし、中川が銃で狙うタイミングを作る。中川は落ち着いて急所を狙うだけでよかった。初弾で母羆は斃れた。これを見て木から降りて逃げ出した子羆は熊五郎が追いかけ、たちまちその首筋に噛みついて動けなくしていた。
「銃の音を聞くと、熊五郎は勇気づくんだ。スイッチ入ったように、バーンと喉笛にかぶりつくのさ。1時間も匂いをとって、羆を見つけて、その場に止めておいて、オレを呼びにきて、トドメも刺す。こんな犬、いないですよ。この熊五郎だけで60頭は獲っているから」
熊五郎との数ある狩猟行の中で、中川が「最も印象に残っている」と語るのは、知床半島先端部にある「赤岩」という場所での出来事である。昆布漁が最盛期を迎える8月のことだった。
「番屋破り」のヒグマとの死闘
「あの当時、あそこに3軒昆布漁師の長屋が並んでいて、その一番端の長屋にFさんっていうばあさんが夏場だけ昆布とって暮らしていたんだ。羆が出るところだから、羆除けに犬を2、3頭連れて行ってたんだけど、羆のやつが外のドッグフードの食べ残しを口にして味を占めたんだな。ある日の夕方、ばあさんが番屋の中にいるのに押し入ってきたんだ」
慌てて逃げた老婆からの通報があったのは16時すぎだったため、翌早朝、中川は熊五郎を連れて、役場職員ともう1人のハンターの3人で問題の番屋に駆け付けた。番屋の中に羆はいなかったが――。
「ちょうどその時期だから沿岸いっぱいに昆布漁の船が出ていて、エンジン音を響かせながら作業していたんだけど、だいたい昼前には終わるんだね。で、昆布漁師たちが一斉に引き上げたなと思ったら、ほぼ同時に羆が出てきた。浜を悠然と歩いてきたのさ」
体重250キロほどのオスの羆だった。中川らは番屋から300メートルほど離れた位置にいたが、羆は気にするそぶりもなく悠然と歩いてくると、空いていた番屋の窓から「ピョーン」と中へと飛び込んだ。「シメた」とほくそ笑んだ中川はそろりそろりと番屋へと近づく。すぐ後を相棒のハンターがついてくる。
「そいつがスパイク長靴履いてたもんで、カチャカチャ音がするんだな(苦笑)。だから『後ろいろ』って言ったんだけど、興奮しちゃって聞こえねんだわ」