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「走っているヒグマのどてっぱらに一発当てた」

 番屋まで100メートルほど近づくと、案の定、スパイクの音が気になったのか、番屋の窓から顔を覗かせた。と思う間もなく、窓からポーンと外へ飛び出した羆は山へと走り出した。距離50メートル。中川は一発撃った。

「この日は犬がいたからね。普通はやんないんだけども、走っている羆のどてっぱらに一発当てた」

 普通やらないことをしたのは、半矢(手負い)になった羆がどこへ逃げても、熊五郎が必ず追い詰めてくれるという信頼があってのことだった。果たして、羆は斜面を登って山中へと逃れ、そこへ熊五郎が絡んでいく声がする。山には人の背丈ほどのイタドリやフキが群生し、視界が遮られ、熊五郎が吠える声は聞こえるが、その姿は見えない。

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熊五郎のアルバムより

「銃をかついで何とか登って、声のする方へ近づいていって。姿は見えなかったけど、こうやって下のほうから透かして見ると、ようやく黒い羆の身体と熊五郎の身体がちらちらと見えた。そうしたら熊五郎が『キャイーン!』という声をあげるんだ。羆の手で払われて飛ばされたんだな。そのときは『あ、やられた!』と思ったんだけど、さすが熊五郎で、また立ち上がって絡む声がする。とても急所を狙える状態じゃなかったけど、銃の照準の真ん中に羆の真っ黒い身体が入った瞬間を狙って、また一発撃ったんだ」

 弾はあばら骨に当たったというが、実は中川はここで「大失敗」をしたという。

「本当はクマ撃つときに、そのクマよりも下の位置からは絶対に撃っちゃいけない。撃たれたクマが転がり落ちてくることがあるからね。体重200キロとか300キロだから、下手すると押し潰されちゃう。でもこのときは下から撃った。熊五郎が危ない、という焦りもあったかもしれない」

 案の定、撃たれた羆の巨体は斜面を転がり落ちてきた。中川も横に転がって間一髪、これを避ける。羆は斜面の下まで転がり落ち、そこにまた熊五郎が駆け下りて再び絡む声がする。身を起こした中川は弾を込めなおすと、滴り落ちる汗を止めるため、手ぬぐいで鉢巻を締めて斜面を下って行った。

「行ってみたら、熊五郎が見事に絡んでいるのさ。クマのほうも必死で、吠え声がもの凄いんだ。もう背筋がね、寒くなるくらいの凄い声だったね」

 落ち着いて呼吸を整えると、中川は羆の頭部に「トメ」(トドメ)を撃った。何度投げ飛ばされても羆に立ち向かう度胸と中川が来るまで羆をその場に釘付けにしておく技量――「羆狩り犬」としての熊五郎の力をまざまざと示した一戦だったと中川は振り返る。

 熊五郎は2008年にこの世を去り、その血脈は息子「イチ」、孫の「ゲン太」へと引き継がれたが、そのゲン太も11歳を越え、猟からは引退した。それでも羆と闘った紀州の名犬の血と記憶は、今も北の最果ての地に鮮やかに息づいている。