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 どういうことでしょうか。一般に優生思想とは、優秀な遺伝子を継承すべく人工的な淘汰を肯定する思想、ということとされています。しかし広義には、人間の「生」に対して、「良い生」や「悪い生」があるといった価値判断を下す思想全般がすでに優生思想です。もしあなたが「自分は無価値な人間だから死にたい」と考えているとすれば、そこにもすでに優生思想の萌芽があるのです。

 優生思想の起源はアメリカの断種法ですが、これを徹底して実践したのが、よく知られるようにナチスドイツです。ナチスドイツは「民族衛生」の名のもと、純粋ゲルマン民族を維持するためにさまざまな優生計画を実施しました。中でも有名なものが「T4作戦(障害者などの安楽死)」で、20万人以上がその犠牲となりました。ここで恐ろしいのは、ヒトラーが作戦中止命令を出した後も、民間レベルで「野生化した安楽死(Wild Euthanasia)」が続けられたという事実です。つまり、優生思想的な発想は、多くの人々にとってはごく自然のものなのです。

価値観の大前提が「生の平等性」

 それでは、優生思想の何が悪いのでしょうか? 良い生と悪い生がある、と考えるのはなぜ問題なのでしょうか? 悪い遺伝子を淘汰して国民全体の健康レベル向上を目指すことの、いったいどこが間違っているのでしょうか?

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 簡単には答えにくい問題ですが、哲学的に考えるなら、そもそも「生についての価値判断は不可能」ということになります。なぜなら、あらゆる価値の基盤が生命であるからです。そうであるなら、あらゆる価値の上位概念である生そのものについては、そもそも価値判断の埒外ということになります。逆に、なにかの価値を論じたければ「生の平等性」という前提から始めるしかありません。つまりあらゆる思想と哲学、そして価値観の大前提が「生の平等性」ということになるのです。

 それにもかかわらず「生きる価値」を問おうとすれば、それは確実にあなた自身にも返ってくるでしょう。将来あなたが、あるいはあなたの家族が病気や加齢や障害を負うことで「機能しない人間」になった場合、あなたはただちに死を望むでしょうか。たとえ自傷的自己愛を持っていたとしても、それは難しいのではないでしょうか。もし難しいのであれば、そこにあなたの倫理性の砦があります。役に立つかどうかで人の生を考えるべきではない理由も、まさにそこにあるのです。