自身の価値を他者からの承認に圧倒的に依存しており、「自己承認」が苦手な人が多いといわれる若い世代。それだけに彼らの多くは他者からの承認に依存している。SNSが当たり前のようにある時代を生きる若者たちは、いかにして「承認依存」に陥ってしまうのか。そして「承認依存」はどのようなメリット・デメリットがあるのか。
ここでは精神科医の斎藤環氏が、「自分が嫌い」をこじらせてしまった人たちの、自傷行為のように見える言動について迫った『「自傷的自己愛」の精神分析』(角川新書)の一部を抜粋、紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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つながり依存
現代における承認依存とは、端的に言えば「他者とのつながり」への依存です。
つながり依存の背景には、通信環境の変化が大きく関わっています。とりわけ95 年以降の商用インターネットの爆発的な普及と、ほぼ同時期の携帯電話(2000年代以降はスマートフォン)の普及は若者のコミュニケーション様式に革命的な影響をもたらしました。こうした通信インフラの発展に加えて、2000年代以降はLINE、Facebook、Twitter、Instagram などのSNSが急速に普及しました。SNSでは、相互承認の手続きを通じてネット上にゆるやかな内輪のコミュニティを形成し、「いいね!」ボタンに象徴される承認のサインを、相互に送り合うのが作法です。
承認の量を手軽に可視化、数量化できる利便性ゆえにSNSは瞬く間に若者から中高年の間に普及し、スマホさえあれば、友人や恋人と24時間つながることが可能となりました。こうしたコミュニケーション環境が、「承認=つながり」の一元化をもたらしたのです。承認依存とつながり依存とは、ほとんど同義語と考えてもいいと思います。
コミュニケーションスキルの有無は死活問題
承認=つながり依存とネットやSNSといったインフラの整備とは相補的な関係にあるため、その因果関係は単純ではありません。私の推測としては、インフラが整備されることによって、人々に内在していた承認欲求が見出され、その結果としてさらなる承認サービスが求められる、というポジティブ・フィードバックの過程が一貫して働いているように思います。
「承認=つながり」の一元化は、若い世代の対人評価に甚大な影響をもたらしました。私は「コミュ力偏重」と呼んでいますが、これは対人評価の基準が、ほぼ「コミュ力≒コミュニケーションスキル」に集約される事態を指しています。コミュニカティブであることは無条件に善とみなされ、コミュニケーションスキルの有無は、就活時などにはしばしば、死活問題ともなってしまいます。