この点も定量的な根拠を示すことは難しいのですが、社会文化的な事象を検討することで、コミュニケーション偏重を可視化することは可能です。後述するように、若者の幸福度の調査などからも、そうした推測は十分に可能となるでしょう。
コミュ力が低いとカースト下位に転落する社会
2000年代以降の顕著な傾向として、コミュニケーション関連の流行語が急増したことは誰もが知るところです。「コミュ力」(コミュニケーション能力)、「KY」(空気が読めない人)、「コミュ障」(コミュニケーションに障害がある人)、「非モテ」(異性にもてない人)、「ぼっち」(一人ぼっち)、「ぼっち飯」(一人でする食事)、「便所飯」(一人で食事をする姿を見られたくないためトイレの個室で弁当などを食べる行為)などは有名ですね。
派生語としては「クリぼっち」(クリスマスを一人で過ごすこと)、「チー牛」(「チーズ牛丼を注文してそうな顔」の陰気なキャラ、の意)、対義語としては「リア充」(リアルが充実している、すなわち実社会における友人や恋人がいて楽しく暮らしている人、の意)、「陽キャ」(陽気で明るい性格、の意)、「パリピ」(「パーティーピープル」の略。みんなで集まって騒いで楽しむのが好きな人々、の意)などがあります。中には「KY」「リア充」などのように死語化したものもありますが、その多くが現在も使われているところに、問題の根の深さを感じずにはいられません。
「承認依存」と「コミュ力偏重」の関係性
企業などが採用の場面において「コミュニケーションスキル」を重視し始めたのも最近の傾向です。社会教育学者の本田由紀氏は、この傾向をハイパー・メリトクラシーと呼んで批判しました。かつて日本におけるメリトクラシー(業績主義)は、学歴社会や偏差値至上主義として批判されましたが、現代におけるハイパー・メリトクラシーとは、学校の成績以上にコミュニケーションスキル(曖昧に「人間力」などと呼ばれる場合もある)を重視する風潮を指しています。
現代の日本社会においては、勉強ができる以上に対人関係を円滑に進める能力が重視され、個人のコミュニケーション能力は、不断に評価の対象となります。今や全国の中学高校に浸透している「スクールカースト(教室内身分制)」において、生徒の階層を決定づける最重要要因は、コミュニケーションスキル(「コミュ力」)であるとされます。私の臨床経験からも、コミュ力が低いとみなされてカースト下位に転落し、そこから不登校やひきこもりに至ったと考えられるケースが少なくありません。
「承認依存」と「コミュ力偏重」は、相互に補強し合う関係にあります。コミュ力が高ければ多くの承認を獲得できる一方、コミュ力が高い個人ほど、他者からの承認に依存する傾向が強いのです。