かつての学校社会においてはそれなりに意味のあった「勉強ができる」「絵が上手い」「文才がある」といった才能は、対人評価軸としてはほとんど意味をなさないようです。それどころか、場合によってはそうした才能をうっかり発揮して与えられたキャラを逸脱してしまったがゆえに、カースト下位に転落する、といった事態もありうると言います。私が思春期だった40年前の学校と比べても、子どもたちはなんと過酷な生存競争を生きているのか、と同情を禁じえません。
キャラとしての承認
ここまで私が「承認依存」と呼んでいるものは、実は「キャラとしての承認」への依存を意味しています。ここでの承認は、「自分らしさの承認」とはやや異なります。「自分の本当の姿を認め、肯定してほしい」という欲望よりも、「キャラとしての自分を受け容れてほしい」という欲望に近いように思われるのです。
本来「キャラ」とは、自分で選んだり決めたりするものではなく、教室や職場の空気が決定づけるものです。だから当事者は、しばしば自分の「キャラ」に、自分本来の姿とは微妙にずれた違和感を覚えたり、空気によってあてがわれたキャラを演じ続けることに疲弊したりするのです。与えられたキャラを降りる(変更する)ことは、よほどの偶発事でもない限り、きわめて難しい。
一般にキャラ自認は、いわゆる性自認などとは異なり、自我親和性が低いと言われています。社会学者の瀬沼文彰氏によれば、他人のキャラは饒舌に語る高校生たちに、本人のキャラについて尋ねてみると、意外にも「よくわからない」と答えると言います(『キャラ論』STUDIO CELLO、2007年)。キャラは、自発的に「演ずる」より、子どもたちのコミュニケーション空間の中で「自認させられ」「演じさせられる」もののようなのです。
「本当の自分」とは関係ないと割り切ることも
ただしキャラには、ここまで述べてきた欠点を補って余りあるようなメリットがあります。何より、コミュニケーションが円滑になります。相手のキャラがわかれば、コミュニケーションのモードも自動的に定まる。後はそのモードの枠内で会話を続ければいいのです。その意味でキャラは、ある空間において「その人の居場所」を与えてくれます。
さらに言えば、「これが自分」という実感は伴わなくても、いったんキャラ自認が成立すれば、「自分とは何か」という問いからは、さしあたり解放されます。「キャラを演じているに過ぎない」という自覚は、キャラの背後にある(と想定される)「本当の自分」の存在を信じさせ、また保護さえしてくれるからです。
仮に誰かに傷つけられたとしても、所詮それは演じられたフェイクの仮面キャラなのであって、「本当の自分」とは関係ないと割り切ることもできます。同時にそれは、人生において誰もが避けて通れない「ある役割を演ずる」という行為の予行演習にもなるのです。