川崎市内におけるはじめての大規模団地だった“百合ヶ丘”
ふたつの“百合ヶ丘”駅が誕生するまで、この地域一帯はまったくの丘陵地帯に過ぎなかった。多摩丘陵は、首都圏の爆発的な人口増加に呼応して、一気に切り開かれて宅地化が進んでいった。“百合ヶ丘”もそのひとつというわけだ。百合ヶ丘の団地群は、川崎市内におけるはじめての大規模団地だったという。
百合ヶ丘駅が開業した頃の航空写真を見てみると、肝心の新百合ヶ丘駅付近はまだまだまったく何もない丘陵地のままだ。それどころか、こんもりと盛り上がった丘陵部を避けるように、小田急線の線路はいまとは違うところを走っていた。
いまでも県道3号線(津久井道)が新百合ヶ丘駅の北側を町の中心を避けるように通っているが、この道に並行して小田急線の線路があったのだ。きっと、丘陵部を抜けるためのトンネルや急勾配を避けたからなのだろう。
線路の位置がいまの場所に移ったのは、1974年に開通した多摩線を分岐させるためだ。津久井道に沿ったS字カーブは鉄道の運行上はあまりよろしくない。さらに大きく西にカーブしていく路線の分岐点とするならなおさらだ。そこで、丘陵地を切り開いて線路をまっすぐ走らせた。そしてその新線のど真ん中(丘陵地のど真ん中でもある)にできたのが新百合ヶ丘駅、というわけだ。
ただ、開業直後の新百合ヶ丘駅はいまとはまったく違う。取り立てて何があるわけでもない、ただの分岐駅に過ぎなかった。鉄道側の都合で設けられただけの存在だったというほうが近い。新百合ヶ丘駅付近の開発が本格的にはじまったのは、1977年のことだ。
一風変わっていた新百合ヶ丘開発
新百合ヶ丘の開発は、一風変わっている。普通なら、デベロッパーの類い(だいたい鉄道会社がそれを担うことも多い)が周辺の土地を買い上げたり何なりしてまとめて開発してゆくものだ。教育機関の誘致などもデベロッパーの仕事のひとつだ。
ところが、新百合ヶ丘においてはもともとの丘陵地で山林や田畑を所有していた人たちが、土地区画整理組合を作って自治体や小田急電鉄などと共同して土地区画整理を行った。川崎市もこの一帯を新都心として位置づけている。
これはいわゆる“農住都市構想”といい、おおざっぱにいえば農村の良さをある程度残しつつ、計画的な町づくりをしていこうというものだ。