包丁を持って追い回されたきっかけは……
年を経て、僕たち兄弟に様々なトラブルが発生するようになる。僕はどちらかと言えば感情を表に出さないタイプだが、その一方兄貴は思ったことをすぐ口に出す性格だ。大学生の頃のある日、両親が遠方に行っていて留守にしていた。僕は洗濯機を回していた。洗濯が終わってカゴに洗濯物を移していたら、そこに兄貴がやってきた。すると、おもむろに次の汚れ物を洗濯機の中に投入して洗濯を開始したのだ。
「今、洗濯が終わったばかりなんだからさあ」
僕がたしなめるように言ったのが、兄貴の逆鱗に触れた。包丁を持って僕を追っかけ回したのだ。僕は「殺される!」と思い、必死で自分の部屋に逃げ込み鍵をかけた。彼は怒鳴りながらドアを叩いていた。しばらくして静かになったと思ったら、リビングの方から「ガン!ガン!ガン!」とただ事ではない音が響いてきた。
「しまった!」と咄嗟に思った。リビングにはチェロをおいてきたのだ。兄貴はチェロの表板に向かってありったけの力で鉄製の譜面台を振り下ろしていた。翌日、恐る恐るチェロを見ると、表板には亀裂が入り大きく損傷していた。自由が丘にある楽器修理専門店に持っていったが「修復不可能です」と言われてしまった。まあ、チェロが僕の身代わりになってくれた、と思えば腹も立たないか。
「なんでもっと兄ちゃんを怒らないの?」
チェロと兄貴に関するエピソードをもうひとつ。ある日の夕方、兄から電話があった。
「純ちゃんのことをよく知ってるZさんが、ほら何度か食べにいった魚が泳いでいるお店あるよね、あそこに6時半頃に来るらしいので、純ちゃんも行っておいてね」
雨が降りしきる中、時間通りにその店に行くが、待てど暮らせどZさんは来ない。1時間待ったが来なかった。雨は降り続いていた。帰宅しドアを開けると……僕が大事にしていたチェロと、カーク・レイナートのリトグラフ2枚がなくなっているではないか。
そのチェロは大量生産ではなく、手作りの楽器だった。まず面持ちがいい。美しい。そして当然であるが音が魅力的だ。購入当時の値段は100万円ちょうどだった。ずっとアマチュアオーケストラの演奏会の本番で弾いてきた。だから楽器に対する愛情も強い。恋人みたいなものだ。僕はすぐに警察に電話をした。ところが、犯人は兄貴だった。その頃、兄貴はお金に困っていたようだ。
母親からは「なんでもっと兄ちゃんを怒らないの?」と言われたが、僕は仕方ないと思っている。その後もいろいろとあったけれど、そういう人なんだからと諦めている。だからといって兄貴のことを嫌いにはなれない、今は。