1972年6月、当時、通産大臣(現・経産大臣)であった田中角栄は、翌月に控えた自民党総裁選に向けて政策綱領『日本列島改造論』を世に問うた。田中は裏日本とも呼ばれていた日本海に面した新潟県出身の議員だった。人口も経済も東京に集中し、高度成長から取り残される地方の悲哀を知る政治家の1人だった。
日本列島に隈なく高速道路を走らせ、同じように新幹線を通す。列島中に張り巡らされた高速道路と新幹線でヒトとモノを動かし、地方に産業をもたらす――その力によって地方と都市との格差を解消しようとした。
それからちょうど半世紀。田中が思い描いていたように、新幹線は北海道から九州まで伸び、高速道路は日本列島を網羅するように走っている。だが、田中が何よりも願った地方と都市との格差は埋まるどころかさらに開こうとしている。なぜ格差は埋まらないのだろうか? 田中の願いは叶わぬものだったというのか?
戦後日本の経済復興の中、「トヨタ自工」に就職
『日本列島改造論』発表から50年が過ぎ、その回答とも言うべき本が出版された。『地域格差の正体』がまさにそれだ。筆者は栗岡完爾、近藤宙時の2人。トヨタ自動車の副社長まで勤め上げたという筆者の1人である栗岡を早速訪ねた。84歳になるという栗岡は、古風な武将を思わせるその顔の造作に柔和な笑みを浮かべながら話す。
慶応大学で山岳部だった栗岡は、登山に明け暮れる大学生活だった。冬季試験の直前に登った山の天候が荒れ、下山叶わずに試験を受けることができなかったこともあるほどだった。
就職について格別な思いがあったわけではなかったが、戦後日本の経済復興のはっきりとした足音が聞こえてくる中、漠然と選択肢にあったのがメーカーだった。先に社会に出ていた兄たちも、栗岡の選択を後押ししてくれた。そして、選んだのが「トヨタ自工」(現・トヨタ自動車)。当時はまだ製造の「トヨタ自工」と販売の「トヨタ自販」とが分離していた。合併がなったのは1982年。栗岡が入社した1959年から23年後のことだった。
入社した栗岡は生産現場、工場での勤務を希望した。生産現場の配属を希望する新入社員は珍しく、同期では栗岡だけだった。栗岡はメーカーの力の源泉は現場、つまり工場にあると考えていた。希望が通り、まず配属されたのは工場内の「工務部」だった。「工務部」は補給部品を扱う部署で、部品の摩滅、故障に対応するためのスペア部品などを扱っていた。