不可思議なほどの客観性
「だから『M-1』で暴言吐いた子もわかります。私を知らなかったんだと思いますから、仕方ないです。ローカルタレントの寂しさですね。あれは虚しい朝でした」
「できますって皆さん、それ与えられたら。だって他を知らないもん。知らないって怖いですね。(中略)皆さんに言われます、『よくやりましたね』って」
M-1後に後輩芸人から暴言を吐かれた話、長者番付に載るほど外で稼ぎながら家事育児を完璧にこなしていた頃の話……インタビュアーがそこに憐憫の情を示すと、それまでヒートアップしていたトークは一瞬でスッと鎮まる。自分の内面に必要以上に踏み込まれないように、自分自身もまた自分の内面に踏み込まないように、細心の注意を払っているように私には見えた。
そう、彼女一流の話芸は、この不可思議なほどの客観性に支えられている。言うなれば“上沼恵美子人生ゲーム”をプレーしている、上沼恵美子だ。決して人生の舵を他人に委ねているわけではないが、当事者としての主体性が「上沼恵美子」を作り上げているというよりは、「上沼恵美子」をしゃべることで「上沼恵美子」を作り上げている……という感覚。
この企画のバックボーンとして、ジェンダーやフェミニズムは欠かせないものだった。そのものズバリが語られたインタビューはほとんどなかったが、女性芸人の生き方や苦悩を紐解くと自ずと社会的な役割の重みが浮かび上がる。
上沼恵美子が強いられてきた人生――女性芸人が物珍しかった時代に人気漫才師として数々の嫌がらせにも遭い、20歳そこそこで結婚しいきなり義実家同居、夫に理不尽な制限を受けながら芸能活動を続け、仕事と育児を両立しつつ「西の女帝」と呼ばれるまでになる、こう並べてみると「社会が要請する役割規範の中で苦しみながらも成功した60代女性」という見方はできるだろう。
しかし、上沼恵美子と「社会」が私の中でどうにも結びつかないのである。実際の上沼恵美子という人を考えると、その「他人事」感、「人生ゲーム」感が、社会規範をはるかに凌駕してしまうのである。