「笑ってもらえないことを『スベった』と言うじゃないですか。今『スベった』というのを言い過ぎてますね。そんなもん恥ずかしい話なんですよ。(中略)
それなのに『スベりおった』っていうのを前に出して、言ったもん勝ちみたいなね。そうすることによって、被害から逃れられると皆さん思いすぎやと思うんですよ。もっとどろっとしたもんですよ。それこそ椅子取りゲームですよ、この世界は。ひな壇には誰でも座れますが、ひな壇からMCの席に来るのは、やっぱり力です」
「グニューって群青色の汗を流せと思うんですよ」
「かばっていた彼らだって本心じゃないと思いますよ。ざまあみやがれって思ってるんですよ。でも口ではそんなこと言わん。それにまたネットはおどらされて『かわいそうやわ。上沼さんってむちゃくちゃ言いよるね』って。そうネットで言う人たちも、自分の身に置き換えたら『椅子空いたな』って思うに決まってる」
“ポテトサラダのおっちゃん”の時とは明らかに違う熱量だった。しゃべることで上沼恵美子を形作っていた彼女が、初めてここでどろっとした内面をそのまま見せた気がする。
上沼恵美子が「お笑い」を語ってこなかった理由
インタビューでお笑い論を語ってこなかったのは、きっとそれが面白いと感じられないからだろう。今流行りの考察や芸人の努力話は、目の前のお客さんを笑わせる「演芸」の価値を下げると思っている。M-1でしばし暴れるのも、彼女のこうした「演芸たれ」の精神によるものなのだろうと私は理解した。
芸人が、ただ面白い人で居続けるのは本当に難しい。芸人に寄せられる「ただ笑わせてほしい」という期待に忠実に生きようとするのは。大きな組織に守られず、自分で組織を作ることもせず、ただ一人、上沼恵美子だけで笑わせてきた女性である。
テレビというファンタジーの中で上沼恵美子を生きてきた彼女。そんな空虚な存在で居続けられた裏側には、自分がこの世で最も面白いという自負とプライドが渦巻いているのである。最後の最後に、その渦に少しだけ触れられた気がした。