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芥川賞受賞・石井遊佳インタビュー「インドで開花した”笑わせてなんぼ”の関西人精神」

「書くことは私の『業』です」と語る作家の素顔

2018/01/24

genre : エンタメ, 読書

note

読者が思わず検索したインドの「飛翔通勤」

 泥の中から人が掘り出されて旧知の人と再会したりと、作中では驚くべきことが平然と起きる。そのあたりもひょっとして実体験をしている?

「もちろんそれはないですし、霊感みたいなものが強いということもまったくありませんね。小説になると変なことを書いてしまうというだけで、私自身はごくふつうです」

 それでも、『百年泥』では「飛翔通勤」の様子なども克明に描かれる。

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〈この会社の重役は全員、ラッシュを避けるため飛翔によって通勤するが、それはチェンナイで暮らしはじめて以来、今では見慣れた光景になった。〉

〈趣味のよいブルーのワイシャツの襟元をととのえつつ両翼を重ねて駐車場わきに無造作に放り出す、すると翼が地上に到達する直前に係員が受け止め、ほぼ一動作で駐車場隅の翼干場にふんわり置いた。〉

 まるで見てきたかのような描写。そうかインドではよくある光景なのだなと、つい鵜呑みにしたくなる。

「作家の写真というと、私の中では教科書でよく見かけたこのポーズです」と石井さん

「飛翔通勤のアイデアは書いているうちに自然と出てきましたね。道が混んでいるのなら、重役だったら空を行くだろうと。インドにはこんなものが本当にあるのかと、読みながらインターネットで検索してしまったという感想を知人からもらったときは、『やった!』と思いました。私は関西人で、笑わせてなんぼという精神が根本にあるものですから(笑)。

 書きながら何度も読んでいるので、自分でも飛翔通勤は本当にあるような気になりましたね。たしかに駐車場わきに干場もあったな、などと思ってしまったり」

 インドを舞台にしたことが、荒唐無稽さを増幅させた面は?

「これまでに書いた小説でもちょっと不思議なところはよく出てきますけど、今回の小説では不思議さがいつもより少し色濃く出たかもしれません。やっぱり、『インドならありそう』と思ってもらえるのではという読みは、働いていますよね」

しょうがなくインドについていった

 ではインドに住むと決まったときは、「これはおもしろい小説を書くチャンス!」などと思ったりしたのだろうか。

「そこまでは考えませんでした。サンスクリット語研究者をしている夫が現地で日本語教師の仕事を見つけてきたのですが、妻も同じ仕事をしていると先方に言うと、じゃあふたりで先生として来てくれと言われて……。最初は『なんで私も行かなあかんの?』というのが正直な気持ち。大学院で仏教の勉強をしていたので縁や興味がないわけではありませんが、私はしょうがなくインドについていったというのが実際のところです」

©山元茂樹/文藝春秋

 どちらかといえばいつだって、状況を受け入れ流されていくタイプである。

「そう、あまり気が進まなくても、異質なものが目の前にあるとどこか気持ちがそそられて、そっちへふらりと行ってしまうところはありますね。それでいろんな目に遭うことも多いんですが。

 今回だってインドでの日々は何かとたいへんです。大洪水があったのは住み始めて1年も経たないころでしたし、日本語教師の仕事もけっこう忙しい。これまで小説をずっと書き続けてきましたが、インドではなかなか書けませんでした。

 洪水の話も頭に引っかかっていたけれど、メモを残しておく程度でそこから進められなかった。去年になって3ヶ月ほど仕事の手が空く時期があって、その間に奇跡的に一作ようやく書けたというところでした」