きょう1月25日は、日本を代表するマンガ家である石ノ森章太郎と松本零士の誕生日だ。いずれも1938(昭和13)年、石ノ森(本名・小野寺章太郎)は東北の宮城県、松本(本名・松本晟)は九州の福岡県に生まれた。地元の高校在学中に『漫画少年』という月刊誌でデビューした点も共通する。当初のペンネームはそれぞれ石森章太郎、松本あきらだったが、松本は1968年、石ノ森は1986年に改名している。
高校卒業後に上京すると、石ノ森が西落合の下宿を経て、マンガ家アパートとして有名なトキワ荘(豊島区)に入居したのに対し、松本は文京区の本郷三丁目にあった「山越館」に下宿を始めた。このころ本郷には、ちばてつやや、のちに松本と結婚する牧美也子などの若手マンガ家、またデザイナーや小説家、医者の卵なども住んでいて、よくみんなで集まっては交流していたという(松本零士『遠く時の輪の接する処』東京書籍)。
それぞれ別々のコミュニティのなかでマンガ家として成長しながら、石ノ森と松本は10歳上の先輩・手塚治虫から強い影響を受け、よく面倒も見てもらっていた。二人は手塚を介して、運命的ともいえる接点も持っている。
福岡と東京で同じ原稿を手伝っていた
それは松本が上京する直前の1957年2月のこと。当時『西日本新聞』で連載を持っていた手塚は、福岡の旅館に籠ると、他誌の作品も含め原稿を描くため、アシスタントに松本や高井研一郎など「九州漫画研究会」の面々を呼んだ。このとき『漫画王』の連載『ぼくのそんごくう』も、松本らの手を借りて1回分を完成させている。じつは東京では、もう原稿が間に合わないと、トキワ荘にいた石ノ森や赤塚不二夫、藤子・F・不二雄、藤子不二雄Aらが『ぼくのそんごくう』の代筆を任されていた。こちらの原稿も完成したものの、ギリギリになって手塚の原稿が航空便で編集部に届いたため、雑誌に掲載されることはなかった(宮崎克・吉本浩二『ブラック・ジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~ 2』秋田書店)。松本の手伝った原稿が結果的に、石ノ森たちの代筆原稿を没にしてしまったわけだが、双方とも尊敬する手塚のため、必死になって描いたことに変わりはない。
石ノ森章太郎は還暦を迎えた3日後、1998(平成10)年1月28日に死去した。いまから20年前のことである。このとき松本零士は次のように同年代の才人の死を悼んだ。
「まったく誕生日が一緒で、同じころにデビューし、アニメーションを志向したことなど、共通点が多く、驚きでいっぱいだ。明朗快活な人だし頑強だったからさぞや無念だったろう。手塚治虫さんを含め「日本3大アニメ・マニアだ」と言い合っていたのに。彼は未来的な作品にも、必ず故郷・宮城の「民話的」環境や解釈を取り込んでおり、その点が特に天才的に素晴らしかった」(『毎日新聞』1998年1月31日付)