コロナ禍で注目された地方移住。都会ではなく山奥で仕事をする人がどんどん増えている時代である。そんな今こそ「なにもない田舎」と言われる地域の資源を再発見する機運も高まっている。
ここでは、人口が減少した地域でビジネスを成功させた事例を経営エッセイストの藻谷ゆかりさんがまとめた本『山奥ビジネス』(新潮社)より一部を抜粋。熊本県山都町の老舗酒蔵の、ゲーム「刀剣乱舞」を通じて手にした縁による立て直しについて紹介する。(全2回の2回目/後編を読む)
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「自分が酒蔵を継ぐ」と思っていたのに…
1770年(明和7年)創業の老舗、通潤酒造12代目の山下泰雄は1963年生まれ、三人きょうだいの長男である。山下は老舗酒蔵の跡取りとして子供のころから祖父にかわいがられ、「長男である自分が、通潤酒造を継ぐのが当たり前」と思っていた。
高校から熊本市内に下宿し、大学は大阪大学経済学部に進学して数理経済を学んだ。大阪では上方落語や芝居を見に行ったり、当時の大阪証券取引所で小口の株式投資もやってみたりするなど、大学生活を大いにエンジョイしていたそうだ。
山下は1986年に大阪大学卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行する。東京の日本橋支店に配属され、朝8時から終電までモーレツに働く日々を送る。上司からは100億円規模の不動産融資をどんどん増やすように言われ、「日本興業銀行は日本経済の基幹産業に対して融資をする」と思っていた山下は、違和感を覚えたという。
そのころ実家の通潤酒造は山下の祖父と父が経営していたが、売上が約1億5000万円に対して、借入金が約2億円もある経営状況だった。父は東京農業大学を卒業して家業に戻り、酒造りには熱心でも経営にはあまり関心を持たなかった。経営を担っていた祖父は、孫がエリート銀行員となったことを大変に喜び、「自分の代で造り酒屋をやめる」と言い出して、帰省していた山下と口論となった。
「いつかは自分が酒蔵を継ぐ」と思っていた山下にとって、祖父が廃業すると言い出したことは、「足元の地面が抜け落ちるような感覚」だった。後から知ることになるのだが、口論した際に祖父は脳卒中を起こしており、祖父が1989年に亡くなると、山下は責任を感じる。そして山下は興銀を辞めて熊本の酒蔵に戻ることを決意し、1989年11月に人事部に退職することを伝えた。時はバブル経済の絶頂期、「今、興銀を辞めて熊本の酒蔵に戻るのか?」と人事部には大変驚かれたという。