コロナ禍で注目された地方移住。都会ではなく山奥で仕事をする人がどんどん増えている時代である。そんな今こそ「なにもない田舎」と言われる地域の資源を再発見する機運も高まっている。
ここでは、人口が減少した地域でビジネスを成功させた事例を経営エッセイストの藻谷ゆかりさんがまとめた本『山奥ビジネス』(新潮社)より一部を抜粋。脱サラして北海道岩見沢市美流渡地区でパン工房を開業した夫婦の苦労とこだわりを紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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中川夫妻が脱サラ起業した理由
1998年3月末に、中川達也・文江夫妻が息子2人を連れ、美流渡に移住した。中川夫妻は2人とも1960年生まれ、新潟県出身でNTTに勤務していた中川達也は、北海道出身で看護師の中川文江と東京で出会って結婚した。「いつか北海道でペンションをやりたい」という共通の夢を2人は持っており、そのために少しずつ貯金をしていた。
夢の実現のために、まず札幌への転勤を希望し、それがかなって2人は札幌に住んでいた。達也は札幌で安定したサラリーマン生活を送り、文江は専業主婦になり息子2人を生んで育てていた。
30代に入ったある日、達也が「俺たちは、こんな当たり前の人生でよかったのか」と言い出したという。文江も「確かに。かつて私たちには夢があったよね」と思うようになった。夢を実現することから逃げていることに気が付いた2人は、安定したサラリーマン生活を捨てることを決意する。すでにペンションブームは去っていたのでペンション経営はあきらめたが、もともと料理のセンスがあった達也がパン工房をやることを提案する。
達也が子供の頃、近所のお菓子屋がコッペパンを焼いて売っていた。ある日達也が買いに行くと、店の棚にはいつものコッペパンがなかった。店の人に少し待つように言われて待っていると、焼き立てのコッペパンを出してくれた。達也はその時の「あったかくて、こうばしくて、柔らかい」コッペパンの美味しさが忘れられないという。こうしてパン職人になることを決意した達也は、1992年にNTTを退職しパンの修業を始めた。
中川夫妻は「夢を叶える」というだけで、起業したわけではない。1990年代はバブル経済が崩壊し、社会情勢や価値観が大きく変動していた時代だった。「2人の息子に、たくましく生きていく力を与えたい、自然の中で山猿のように育てたかったんです」と文江は語る。また文江の父は、古い家電を修理してリサイクルし、DIYで家を直すことを趣味としていた。北海道でも空き家が増えていることが報じられており、文江は「移住してパン工房をするなら、郊外にある空き家を活用したいと思っていました」という。