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「熊しか買いに来ない」と忠告されたが…脱サラ夫婦が始めた山奥のパン工房が“話題のお店”になれたワケ

『山奥ビジネス 』より#2

2023/01/05
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「どんな仕事でも一生懸命やる、うそをつかない、ご縁を大切にする」

 パン工房の開店当時は収入が不安定だったため、文江は家計を支えるために高速バスで札幌に通勤し、介護関係の会社にOLとして3年間勤めた。その期間は夫の達也が主に家事育児をしていたという。文江はこの勤め以外にも看護予備校の講師や農作業手伝いなどの仕事をし、週末だけミルトコッペの販売を手伝っていた。また息子たちが食べ盛りの頃には、週に1日だけスーパーの店員として働き、報酬の代わりに廃棄予定の食品をもらって、食費を大幅に節約していたこともある。

 文江はこのように掛け持ちで仕事をしても、どの仕事も楽しんでやるポジティブな女性だ。さらに長男が大学に進学したタイミングで、文江は以前から興味を持っていたリンパドレナージュ・セラピストの民間資格を取るため、東京に3か月ほど通うことにした。

 リンパドレナージュとは、全身の老廃物を手技でリンパ節に流していく施術である。文江はこの資格を取得後、岩見沢市でリンパドレナージュのサロンを開いた。現在は世田谷区に一軒家を借り東京で働く長男一家と家賃をシェアし、月に10日ほど上京してサロンを運営している。いろんな仕事をやってきた文江だが、看護師の知識を活かしながら、まさに「手当て」をして人々を元気にしていくリンパドレナージュ・セラピストという天職に出合い、美流渡と世田谷区にサロンを持って2拠点生活をエンジョイしている。

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 これまでどのような想いでこうした仕事をしてきたかを文江に尋ねると、「どんな仕事でも一生懸命やる、うそをつかない、ご縁を大切にすることです」と語る。これはパン職人の達也にも通じることであろう。

 テレビなどで紹介されてミルトコッペにお客が殺到していた時期、達也は朝と午後の2回パンを焼いていた。しかし、「午後焼きのパンはおいしくない」と達也は感じたので、朝1回だけパンを焼くことに戻した。午後焼きのパンを食べても、おそらく味の違いは客には判らないだろう。

 またミルトコッペの主力製品、コッペパンは手のひら大で、ずっしりと重い。それでも1個120円、レーズンやくるみ、豆が入ったコッペパンは150円で販売している。都市部だったら1個300円で売っていてもおかしくない美味しいコッペパンなので、値上げをすれば収入をもっと増やせるだろう。しかし、「こんな山奥まで、中には札幌や旭川から高速道路を走って買いに来ていただいているのだから、パンを高く売りたくない」というのが、パン職人の達也の考えなのだ。

 自分の舌に忠実で、客にも誠実なパン職人の達也と、その姿勢を尊重して家計に必要なお金を稼ぎ、今は天職といえる仕事をしている文江は、ビジネスをしながらも「お金以外の大切なこと」を尊重している素敵な夫婦である。

山奥ビジネス (新潮新書)

藻谷 ゆかり

新潮社

2022年10月15日 発売

「熊しか買いに来ない」と忠告されたが…脱サラ夫婦が始めた山奥のパン工房が“話題のお店”になれたワケ

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