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4000リットル以上の日本酒がタンクから流出…救ったのは「刀剣乱舞」? 熊本地震で被災した酒蔵が“復活”できたワケ

『山奥ビジネス』より#1

2023/01/05
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免税店での販売と海外輸出

 当時の通潤酒造は赤字経営で、山下が最初に受け取った月給はわずか15万円だった。銀行員の給与水準は高かったので、前年度の給与水準に基づく住民税を払うのに苦労したという。帰郷した山下は酒蔵経営を一から学び、同業者や山都町の酒米農家との付き合いも始まった。しかし山奥にある小さな酒蔵は月々の資金繰りにも苦労し、山下は個人的な信用で地銀から融資を受けて、なんとか事業を継続できるという状況だった。

 1992年12月、当時世界最大級といわれた成田空港の第二ターミナルが開業した。「成田空港第二ターミナルの免税店で、日本酒を販売しないか」と知り合い経由で声を掛けられ、山下は高価格帯の純米吟醸酒を卸し始める。

 免税店での販売は当たり、多い時には月に4000本も売れ年間約5000万円を売り上げた。その後も同じ業者を通じて、台湾や韓国の最高級ホテルでの販売や中国の航空会社の機内販売にも採用され、通潤酒造は日本酒の海外販売を拡大していった。経営状況は徐々に好転し、売上は約2億5000万円となり、海外売上が3割以上を占めた。また海外売上の拡大で、高価格帯の純米吟醸酒の生産能力を高められたことも収穫だったという。

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観光酒蔵からネット通販へ

 しかしその後、競合が増えたため免税店での販売や海外輸出は伸び悩む。またそれらの取引は卸マージンが大きく、販促物の提供なども負担になっていた。

 そこで山下は消費者への直接販売を増やすために、1996年から酒蔵見学を始め、観光酒蔵への転換を試みた。山都町の観光名所である通潤橋を訪れる観光客を呼び込み、酒蔵で無料試飲を提供して日本酒を買ってもらうスタイルだ。通潤酒造には熊本県内で一番古いとされる寛政蔵という酒蔵があり、リフォームして観光酒蔵として整備した。

 しかし実際に酒蔵見学をやってみると、観光客は無料の試飲を楽しんでも、肝心の日本酒をなかなか買ってくれない。酒粕を活用して製造販売している漬物を買うくらいで、平均客単価はわずか500円程度だった。

 1997年には先代の父親から代替わりして、山下が通潤酒造12代目の社長となる。山下は消費者への直接販売を増やすために、今度は会員制のカタログ通販を始めた。観光に来た顧客を中心にカタログを送付し、ある程度伸びたものの、印刷代などがコスト負担となった。そこで2000年代に入ってからは、ネット通販に注力する。

 転機となったのは、地元出身の若い社員が入社したことである。2012年に、山都町にある真宗大谷派潜龍山延隆寺18代目の跡取りとなる、菊池一哲(かずあき)がUターンした。いずれは寺を継ぐものの、父親である現住職も元気なうちに地域との関係を身につけるため、副住職として帰郷したのだ。住職から「息子が帰ってきた」という話を聞いた山下は、菊池を広報・ネット通販担当として雇うことにする。