だが、彼は13年9月にブエノスアイレスのIOC総会で開催都市が東京に決まり、翌年1月に大会組織委員会が発足してもすぐには理事に選ばれなかった。
35人目の最後の理事枠に彼を押し込んだのは森元首相だったが、高橋氏には計算もあった。五輪のスポンサー選びを担う専任代理店には4社が手をあげ、最大手の電通が指名を受けた。実質的にその下に広告大手のADKグループが入る形になったが、電通の受注に関与した疑惑を持たれないよう、高橋氏は結果を見極めたうえで理事のオファーを受けたのだ。もちろん、冒頭の五輪招致への関与に消極的だったとの発言も単なる“ブラフ”に過ぎない。
IOC総会に突然現れた高橋氏
09年10月、デンマーク・コペンハーゲン。16年の五輪招致活動に関わった幹部の1人は、雌雄を決するIOC総会を目前に控え、現地に高橋氏の姿を見つけ驚いたという。
「招致活動にほぼ関わっていなかったはずの高橋氏が突然現れ、票の行方を握るセネガル出身のラミン・ディアク国際陸連会長(当時)に接触し、『ラミンはアフリカの16票を纏めたと言っている』という情報をもたらしたのです。結果的に日本は敗れましたが、初めから高橋氏を頼るべきだったという後悔だけが残った。次の五輪招致は、高橋氏頼みになることは目に見えていた」
そして高橋氏は招致委員会のスペシャルアドバイザーに選ばれた。
スポーツマフィアが跋扈し、生き馬の目を抜く世界で、高橋氏が力を持ち得たのは、彼の1歳違いの弟の存在を抜きには語れない。それが「環太平洋のリゾート王」の異名をとり、バブル期に数々の伝説を残しながら、のちに「長銀(日本長期信用銀行)を潰した男」と呼ばれた故・高橋治則氏である――。
ペレ引退試合で頭角を現す
治則氏は終戦の年、1945年に父親の実家がある疎開先の長崎県平戸島で生まれた。高橋家のルーツは平戸藩の藩士とされ、母方の遠戚には元運輸相の大橋武夫や「ライオン宰相」として知られる元首相の浜口雄幸がいるという。
一家はその後、東京に移り住み、高橋兄弟は慶應幼稚舎から慶應高校へと進んだ。兄、治之はそのまま慶應大に入ったが、治則は一度、高校を中退し、世田谷学園に転入した後、再び大学で慶應に入り直した。2人にとって慶應人脈はその後の人生のベースになっている。治之氏は旧皇族の竹田家の次男、竹田恒治氏と同級生で、のちにJOCの会長になる3歳下の三男、恒和氏とも幼少期から親しく付き合う仲だった。
大学を卒業した高橋兄弟は、兄は電通、弟は日本航空に就職した。