美点と欠点、「表の顔」と「内面の深部」。さまざまな側面を抱え持つ人間という「多面体」は、光の当て方で凸凹の陰影が違って見えてくる。渡辺作品に登場するキャラクターはどれも、その時々の言動が一見矛盾しているようで、根底ではしっかりと繋がっている。きわめて「生身の人間」に近い人物造形が巧みだ。
村井もかつてはジャーナリズムに燃えたテレビマンであり、捨て鉢になって周囲に毒づいていたのには、報道班の人間としての誇りを踏みにじられたという経緯があった。もちろん、「だからセクハラを許してあげて」ということではない。渡辺あやという脚本家は、世の中に実在する「人」「もの」「こと」を“矯正”せずに、「あるがまま置く」のである。だって、それが「世の中」だから。
“同じ失敗”を繰り返す主人公
一方、「深夜番組に飛ばされた落ち目の女子アナ」から看板報道番組である「ニュース8」に返り咲き、再び「大洋テレビの顔」となった浅川。しかし、毎日のニュースに忙殺されるうちに、「事態をのみ込み続け、自分を打ち消し、やがて壊れる」という、振り出しに戻ってしまった。「二度となりたくない」と思っていたはずの「嘘つき人形」に、再度なってしまっていたのだ。
その浅川が、パイプ椅子を掲げた村井に“ノック”され、またもや凝り固めて閉じこもろうとしていた「殻」が割れた。その姿に、見ているこちらもゾクゾクする。
浅川の“覚醒”は、これで2度目だ。1度目は、第1話で松本良夫死刑囚(片岡正二郎)の冤罪を晴らすという“使命”に出会ったとき。しかしその後、報道局のエース記者・斎藤(鈴木亮平)への情愛に絆され、目的を見失いそうになる。やがて鈴木との関係を断ち切り、鉢巻を締め直すも、「ニュース8」のメインキャスターとして結局「組織の駒」となってしまった。これも、“矯正”せずに「あるがまま置」かれた「生身の人間」の姿だ。
主人公の浅川が、終始「流れに身をまかせては、同じ失敗を繰り返す人」として描かれていて、ちっともヒロイックでないところが、容赦ない。そして、だからこそ浅川の姿が、会社・業界・団体・コミュニティなど、なんらかの組織の中で生きざるを得ない我々視聴者の身に、リアルに跳ね返ってくる。
さらにこの作品は、冤罪事件を追ったことをきっかけに花形ポジションに復帰した浅川の姿を通じて、テレビというメディアの加虐性、つまり「テレビと、それに関わる人間は、“正義”の名のもとに、人の不幸を食い扶持にしてはいないだろうか」という自問と、自己批判にまで踏み込んでいる。
単純な「バディ」としては描かれない2人
そして、大洋テレビを解雇され、今やたった1人で事件を追うことになってしまった岸本。序盤では定石に則って、岸本が浅川と「バディ」として信頼を深めあっていくのかと思われた。しかしこれは渡辺あや作品。そうは問屋が卸さなかった。