東京事変やPerfumeのミュージック・ビデオの制作で知られる児玉裕一が手がけたオープニング映像が象徴的だ。浅川、岸本、斎藤を表す、メビウスの輪のような3本の螺旋が、ときに交差し、ときに同じ方向を向き、ときに離れ、光の差す方へ向いたかと思えば、すぐにまた闇に向かって迷走する。
「どちらかが出ればどちらかが潜む」を繰り返しながら冤罪事件に関わり、かつまた、ドラマ的には回ごと、シーンごとに「主人公バトンタッチ」の様相を呈してきた浅川と岸本。「表と裏」のような2人について渡辺は、インタビュー(※)でこのように語っている。
《今まで戦ったことのなかった人が、冤罪事件というリスクの高い案件の真相解明のために戦おうとすると、局内でいったいどういうことが起こるのか》
本作は、そんな2人の“闘いの記録”と言えよう。それは、「対組織」であるとともに、「己との闘い」でもある。そうしたときに、結局は、現状の浅川のように「色々なものを“のみ込んで”、なおかつ組織に“のまれる”」か、岸本のように組織からはじき出されるかの二択となってしまう……というのが、9話までの話。最終回では、これがどう展開するだろうか。
岸本の「若さ」が、真相解明の起爆剤に
第9話の時点で26歳という岸本の「若さ」が、物語の中でたびたび鍵となっている。はじめは村井や浅川から「ばか」「ぼんくら」と罵られ、「若さ」が「至らなさ」に直結して描かれていたが、やがて岸本の「空気の読めなさ」こそが、真相解明の起爆剤となっていく。
第7話では岸本の「若さ」が、泥酔した五十路の村井が「俺ん中に、もうあの情熱が消えちまってる」と涙して羨む「“真実”への猪突猛進さ」として描かれる。そして村井は、自らのテレビマン人生を賭した、重要証言が収められたVTRを岸本に託すのだった。あの、すべてを諦観したような「枯れたおじさん」だった村井が「怒りのパイプ椅子」を握るに至った理由のひとつには、岸本の若い情熱に触発されたこともあったのではないだろうか。