メッシは今大会で“マラドーナの呪縛”から解放された
アルゼンチンには、絶対的な英雄であり聖域でもある「マラドーナ」がいる。優勝した1986年のW杯では“神の手”、5人抜きゴールなど、今でも語り草となっている鮮烈な活躍を見せた。彼は時に“過ち”を犯したが、それすらも愛嬌として国民の心を掴んだ。以降、アルゼンチンでは「マラドーナ2世」という表現が長らく用いられてきたが、メッシですらその重みに潰されそうになってきた。
だが今の国民の半分はマラドーナを知らない、メッシ世代だ。今回の優勝を受けて、ようやく“マラドーナの呪縛”からこの国は逃れられるのではないか、と加藤さんが続ける。
「マラドーナがここまで国民に愛されたのは、生き様としての『男感』だと思うんですね。ピッチ場での表現力ともいえるんですが、感情をむき出しにして、時に飛び蹴りを食らわしたり、破天荒だけど男臭く戦う姿。サッカーから離れると、人間的な脆さもあり、薬物に手を出したり、太りすぎたり。でも、そんな人間臭さも含めて人を引き付けた。
スマートで自己表現をあまりしないメッシには、男らしさの面で物足りなさを感じるアルゼンチン人も多かった。それが一変して、今回はメッシのためのチームづくりが行われ、中心選手として珍しく感情的になり、チームを勝たせるために貪欲に戦っていた。この優勝で、メッシがマラドーナを超えた、と感じる若い層も多いと思いますよ」
右下量三さん(53)は、マラドーナに憧れて15年前にブエノスアイレスへ移り住んだ。以降、日本語学校の講師として、W杯の熱狂や移ろいゆく国の盛衰を見てきた。右下さんによれば、今回のアルゼンチン代表を取り巻く環境は、これまでのW杯と明確な差があったという。
「批判的なアルゼンチンメディアや国民も、今大会に限れば雑音がほとんどないという雰囲気がありました。初戦のサウジアラビア戦で敗れたあと、メッシが『俺たちを信用してくれ』と国民にメッセージを発したんです。去年のコパ・アメリカで優勝という結果を残し、一度彼を信じてみようという土壌が既にあった。そこから代表チームやメディア、国民がひとつにまとまっていった感覚がある。
これまでのW杯の歴史だと、国内からの強い批判で押し潰されていたかもしれませんが、今回は静かに見守ろうという空気になった。そういう意味では、アルゼンチンという国全体で代表を後押しした初の経験だったかもしれません」
物価上昇率は深刻、失業率や貧困率も増加するアルゼンチンの現状
W杯優勝がこの国に何をもたらすか——。そう尋ねると、右下さんは言葉に詰まる。物価上昇率は深刻で、衣類や文房具などの日用品は日本より数倍の値段だ。パソコンひとつ買うにも、優に30万円を超える値がつくため、多くのアルゼンチン人は買い物のために越境してチリなどの隣国まで足を伸ばすという。
失業率は増加の一途を辿り、貧困率も40%に達する勢いだ。それでも多くのアルゼンチン人は家や車まで売り払い、カタールへと飛び、チャントを送っていた。