18日の夕方、雨脚が強まると、道路の冠水が始まる。見る間に水位が増していった。
「畳を上げるのを手伝おうか」と近所の人が声を掛けてくれた。
「逃げないと危ないよ」。家族などから次々と携帯に電話が入る。
もう店の中に浸水してくるという段階になって、甲斐さんは避難した。既に周囲は水浸しになっていて、家の横にある従来の堤防の上を伝って、知り合いの家に身を寄せた。午後6時前だった。
「それからも雨は弱まりません。曽木川の水はどんどん増えて、輪中堤を越えそうになりました。いったい、いつまで雨が降り続くのか。このままではまた2階まで浸かってしまうのではないかと、恐ろしくなりました」と甲斐さんは振り返る。
雨が弱まってきたのは午前3時頃だった。水が引くのを待って実家に戻ると、浸水深は2.2mに及んだ痕跡があった。ただ、輪中堤からの越流ではなかった。集落内や後ろの山に降った雨で内水氾濫したのである。「雨水だけで2m以上浸かるなんて、とんでもない時代になったと思いました」。
戻ってみるとかつての面影がないほど見るも無残な姿になっていた
実家は水害に遭っても住み続けられるよう改造していた。風呂以外は2階に移していたのである。給湯器も2階に置いていたので、風呂は洗えばすぐにでも入れる状態だった。壁には断熱材を入れず、屋内の壁も外壁用建材を張った。そこまでの対策をしても、修繕しなければならない箇所が多く、便所の戸が閉まらなくなるなど、元に戻るまでには相当な時間が必要になりそうだ。
見るも無残な姿になっていたのは、妻の店だった。雑貨をいっぱいに飾っていた棚は破棄せざるを得なくなった。おしゃれなカウンターを大工に作ってもらい、机や椅子を置いて、パンケーキを店内でも食べられるようにしていたが、その面影もないほど壊れていた。
「遠方からお客さんが来るようになり、徐々に人気が出ていた時でした。修繕資金は乏しく、妻は心が折れてしまったようでした。『もう、やめようか』と弱気になっていました」と甲斐さんは語る。
だが、常連客から「再開を待っている」「やめないで」という声が届き、美香さんの心は次第に前を向いていった。
実は、美香さんの店は、常連客だけでなく、曽木地区にとっても重要な拠点になり始めていた。
曽木にはかつて「高千穂鉄道」の駅があり、地域の禅寺を訪れる人の乗降でも賑わった。だが、2005年の台風で高千穂鉄道が廃線になると、「めっきり地区が寂れたような感じになりました」と甲斐さんは言う。