高は韓国ではすでに名の知れた存在だった。小学1年生の頃から独学でプログラミングを学び、兵役を終えた1999年に自作した電子掲示板用ソフトの「ゼロボード」のソースコードを公開した。誰でも開発に加わることができるようになり、韓国では多くの若者に使われるようになった。
ソースコードの公開(オープンソース)はアプリ全盛の現在ではごく自然に浸透しているが、この前年に米国で議論が盛り上がったばかり。高はあるユーザーからの助言で公開に踏み切ったというが、これが高永受の名を韓国中に知らしめた。
「みどりトーク」の開発に着手した時、高は34歳で朴は36歳。いずれもエンジニアとして脂の乗っている時期だ。慎が苦楽をともにし、信頼する二人が、稲垣たち20代の多いチームを統括することになった。
高が来日して最初に覚えた言葉が二つある。一つは「緑」。開発するメッセンジャーのコードネームが「みどりトーク」だったからだ。もう一つは「早く」。こちらは、すでに流暢な日本語を身につけていた慎が日本語で話す時に、頻繁に使っていたからだ。
「とにかく早く!」
慎はキックオフ会議でも何度もこの言葉を使った。会議用資料の作成に使う時間がもったいないので、パワーポイントなどの資料は不要とした。参照したいことはその場でウィキペディアなどで調べて議論する。
検索を捨てた検索屋
高をリーダーとする開発チームが立ち上がる前、慎が稲垣ら3人の女性にみどりトークの開発を命じたのは、この前年である2010年12月のことだった。ただ、この段階ではまだ市場調査の域を出ない。稲垣も「私たちに与えられたテーマは『新しいソーシャルアプリ』という程度で、どのようなプロダクトにするかは全く決まっていなかった」と言う。その作業は「まるで社会学の調査みたいでした」と言う。
例えば、「フェイスブックでつながっている小学生時代の友達とは、どの程度の頻度でリアルで会うのか」を年代別で調べる。投稿の内容が「本当に仲が良いから書いているのか、仲が良いことを示す目的で書いているのか」。投稿写真から何が読み解けるのか。
知りたかったのは、SNS上に存在する人間関係と、実際に使われるサービスの関連性だった。分かりやすい例で言えば、匿名の書き込みが多いツイッターはリアルでの人間関係は薄く、実名が基本のフェイスブックはリアルで会う機会も多くなる。ただし、友達の数が増えるにつれて書き込む内容が、本当に親しい人を対象としたものではなくなっていく。
こんな調査がその後のLINEの下敷きになるのだが、この段階で、ネイバージャパンの中では大きく3つのプロジェクトが並走していた。一つがみどりトーク。あとはゲームとカメラ関連だった。
メッセンジャーの調査チームがたった3人の小所帯だったのには理由がある。実は3つの新規プロジェクトの中でみどりトークの位置付けは一番後回しだった。それが、震災で変わった。「簡単に親しい人とつながれるアプリ」のニーズを感じ取った慎たち幹部陣が、優先順位を変えたのだ。ほかのプロジェクトは一旦凍結。戦略担当の舛田は「(みどりトークを)1秒でも早く実現するため、各プロジェクトにいたメンバーを引っこ抜いてきた」と言う。それが高であり朴であった。福岡に避難していた社員たちから即戦力を集めて結成したのが、みどりトークの開発チームだった。
慎や舛田はここで、重要な決断を下す。