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きっかけは“東日本大震災”? 電話がなかなかつながらず…日本で最もよく使われるアプリ「LINE」誕生のヒミツ

『ネット興亡記 ②敗れざる者たち』より#2

2023/01/28
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 震災の直後、慎と舛田はいつもの大崎駅前デニーズで話し込んだ。

「やっぱりメッセンジャーをやるべきじゃないかな。家族とか大切な人とだけつながるシンプルなものを」

「選択は我々にしかできない。これを取るしかないな」

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「これで最後。このプロジェクトに賭けてみよう。ダメだったら二人で責任を取るしかないですね」

 実は、この時点ですでに社内でメッセンジャーの開発プロジェクトは動き始めていた。開発というよりまだ市場リサーチと言った方が正確だろう。チームはたったの3人。そのうちの一人である稲垣あゆみは震災の日、プライベートで韓国に行く予定だった。23階のオフィスから直接、羽田空港に向かおうとしたが忘れ物に気づき、エレベーターから自分の机に戻ったところで揺れがやって来た。もしそのままエレベーターに乗っていたら何時間もとじ込められていただろう。

 非常階段を駆け下りるとその足で羽田へと向かい、東北地方の大惨事を知ったのは搭乗待ちのテレビだった。そのままソウルへと向かい、数日の訪問のつもりが5月の連休前まで滞在することになった。NHNジャパンが福岡のオフィスに社員を一時待避させることになったからだ。

 4月に入るとネイバー本社のグリーンファクトリーでの会議に呼び出された。そこで告げられたのが、今後の日本事業の方針だった。

「これからはメッセンジャーに集中することになりました」

 稲垣とともにメッセンジャーの市場リサーチを担当していた残りの2人は韓国からの駐在者で、震災を機に帰任させることになったという。つまり、日本に戻ってメッセンジャーツールの「みどりトーク」の開発を続けるのは、チームメンバーの中で稲垣ただ一人ということになったのだ。

 ただ、たった3人でリサーチしていたみどりトークはネイバージャパンが総力を挙げて取り組むプロジェクトに「昇格」されたのだという。総責任者は慎だ。その慎が起用したのが、自らの腹心たちだった。

 現場を取り仕切るプロジェクト・マネジャーに起用したのが韓国人エンジニアの高永受(コ・ヨンス)。さらに女性エンジニアの朴懿彬(パク・イビン)を補佐的な役割に置いた。

 慎はKAIST卒業後にチョンヌンという検索ベンチャーを設立したが、その前にネオウィズというゲーム会社で検索チーム長を務めていた時期がある。高も朴もネオウィズ時代からの同僚であり、一緒にチョンヌンを立ち上げ、ネイバーへとやって来た。ちなみに稲垣もネイバージャパンに来る前はネオウィズの日本法人に在籍していた。

 朴は慎とともに来日しており、日本での経験も豊富だ。一方の高はちょうどこの時、長女が生まれるタイミングと重なり、韓国に残ることになった。

 その後、かつての仲間たちが日本で苦戦を続けていることは聞いており、この年の1月に朴に電話して「僕が日本でできることはあるか」と聞いていた。高は「海外に行きたかったし、昔の仲間たちとまた一緒に仕事がしたかった」と振り返る。

 すると、震災が起きた直後に慎から電話で告げられた。

「これからメッセンジャーの開発に集中する。日本に来てPM(プロジェクト・マネジャー)をやってもらえないか」

 福島での原発事故で妻には心配されたが「その時はもう見えない力で動かされていた」と言う。