これから作るみどりトークは「親しい人とつながれるアプリ」というより「親しい人とだけつながれるアプリ」にしようと考えたのだ。稲垣たちが調べた「SNSと人間関係」の中で、最もつながりが濃い領域を狙い撃ちにしようとしたわけだ。
これがLINEとなる。
東日本大震災という国難を経験した日本人の「心の琴線」に触れるインターネット・サービスとは、本当に親しい人との距離を埋めてくれるSNSだと考えたのだ。探し続けた「心の琴線」の在りかが、ようやく見えたのだった。
この判断はLINEというアプリの性質を考えた時に、極めて重要な決断だっただけでなく、「検索のネイバー」が下した判断であることを考えれば極めてユニークで勇気のいる判断だったと言える。
「親しい人とだけ」ということは、インターネットで検索しても出てこない人間関係をつなぐことと言い換えられる。
それは「いつでも、どこでも、誰とでもつながれる」というインターネットの根本的な思想に背を向けることになる。さらに重要なのは、それを検索のネイバーが仕掛けたという事実だ。LINEの人間関係は今もウェブ検索では出てこない。検索の外に存在するものなのだ。あえてそこで勝負する。つまり、検索の会社が検索を捨てたのだ。
舛田も慎も、いつかグーグルを打ち負かしてやろうとネイバージャパンにやって来た男たちだ。何度戦いを挑んでも、グーグルが誇る「群衆の叡智」を結集させるテクノロジーに跳ね返された。その彼らが180度考え方を変えて、検索を捨てたのだ。舛田はこう証言する。
「僕たちはそれまで、グーグルと同じ土俵で戦おうと、オープンなインターネットの中で戦おうとしてきました。ところがLINEはクローズドな空間です。検索できない場所なんです。僕たちはある意味、グーグルに恋い焦がれてリスペクトし、そしてチャレンジする相手だと考え続けてきたけど、そうではない戦略を選んだのです」
検索屋が検索を捨てた。打倒グーグルの夢を捨てた―。その「背信行為」に、社内の不満をひしひしと感じていたという。当然だろう。だが、もう迷いはなかった。いや、迷っている余裕がなかったと言う方が正確かもしれない。慎もこう証言する。
「もうこれが最後の砦だと、(舛田とは)互いに言わなくても分かっていました。これが失敗すればもう、終わりだと」
そこから舛田が「これを不夜城と言わずになんと言う」と表現する開発が始まった。慎がサービス投入日と決めたのが2011年6月23日。広告枠の関係もあったが、目安とした数字から逆算して定めたリリース日だった。
当時は似たようなメッセンジャーアプリがすでに海外で広がり始めていた。米国のワッツアップと韓国のカカオトークが代表例だ。海外勢はいずれ日本にもなだれ込んでくるはずだ。
機先を制するには「とにかく早く」に徹するしかない。慎は「誰が最初に100万人のユーザーを取るかで勝負が決まると思いました。夏ごろには取らないと負けると考えた」と言う。そのためには6月後半にはリリースする必要があったというわけだが、この時点で残された開発期間は2カ月足らず。まさに「やるかやられるか」の緊張感が漂うなか、休日返上でシフトを組んでの開発が始まった。
リリース4日前には、アップルからiOSのアプリ認定を不合格にされる事件が起きた。ここからは文字通り、不眠不休の作業である。
そして迎えた6月23日。なんとかアップル向けのバグを修正し、リリースしてみると新規登録のリクエストにマンパワーが追いつかない。当時は新規登録者に認証番号を携帯メールのSMSで送っていたが、この作業は外注先だけでは追いつかず、稲垣や朴、高ら主要メンバーも大崎のオフィスにこもってひたすら認証番号を送り続けた。
オフィスを出たのは終電間際のこと。華々しい打ち上げパーティーが開かれることはなく、夕食も宅配ピザで済ませた。真夜中の電車に飛び乗る頃には疲れ果てていたが、一同の表情にはなんとも言えない充足感が漂っていた。