戦後、高度成長期、バブル期、平成、そして令和——どの時代においても、欠かさず毎夜ネオンを灯し続けてきた「盛り場」。そんな盛り場の世界を生き抜いた人びとの人生を描いたのが、ノンフィクション作家のフリート横田氏だ。
ここでは、これまで150か所以上の盛り場を訪れ、1000人以上の話を聞いてきた同氏の著書『盛り場で生きる 歓楽街の生存者たち』(毎日新聞出版)より一部を抜粋。昭和期から今に至るまでストリップ劇場で踊り続けている現役ストリッパー、マリア(仮名)の半生を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
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素直さと積極さを宿す人
昭和東京五輪開催の昭和39年、魚介がいくらでも獲れた北海道のある街で生まれたマリア。東海道新幹線開通、いざなぎ景気突入の時代にあっても、彼女の家には何の関係もなかった。
「そう、すごい貧乏。子沢山の家で。着るものも全部お古ね。それでも、楽しい家だったよ」
マリアはそう言って、タバコの煙を吐く。このケムリの味も、小学校の頃に覚えてしまっている。家は貧しい農家で、6人兄弟の4番目に生まれた。姉3人、下に弟妹がいる。女4人続いた姉妹の中では一番下だが、下の2人にとってはお姉さん。従順さと意志的なところが交互に顔を出す彼女の雰囲気は、この頃に作られたのだろうか。
タバコを吸いながらも中学までは勉強ができた。「不良」と自分で言うけれど、外泊はもちろんのこと門限も厳しく課される家で、すべてを守る少女だった。「いつか保母さんになりたい」、心に夢を秘めながら暮らす少女にとっては、厳しいけれど、「楽しかった家」。
高校を中退し夜遊びをする毎日
中学卒業間際になってきて、様子が変わってくる。海の家でアルバイトをするうちに仲間ができ、彼らに引っ張られるように暴走族に加入する。15歳だった。こうなると学校に行きたくない。やがて家出して、札幌へ遊びに行っては万引きをしてみたり、補導されて家に連れ戻されたり。なんとか高校へは入ったものの、不良暮らしが板についてしまう。保護観察がついた頃、親と大ゲンカして、ついに家を飛び出した。高校2年になったばかりだった。
「それで学校はやめちゃって、この頃は毎日夜遊び。昼は喫茶店で働いて、夜はナンパされて車に乗ったりね」
札幌市内、叔母の住まいの近くにあった喫茶店で17歳にして働きだすが、
「ほとんど、叔母さんの監視つき。これがイヤで飛び出して、転々として、友達と一緒に部屋を借りたの。だけど途中で友達がいなくなっちゃって」