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「2号さん」は、田村の彼女であるばかりでなく、相手演者だったのだ。家を空けるのは巡業していたからで、その途中、ビジネス上のトラブルか痴話ゲンカか知らないが大モメし、女は自分の腹を刺したらしい。公演日程に穴はあけられない。「1号さん」を急遽呼び出したわけだ。

戦後裸体史を概括する

 ここで、ストリップの簡単な歴史を少し説明しておきたい。

 嚆矢(こうし)は終戦後間もない時期に生まれた「額縁ショー」と言われる。額縁の中で動かない裸婦像役の女性を、ごく短時間ジッと眺める他愛もないショーではあったが、娯楽と性的イメージに餓えた男たちが殺到した。扇情的踊りをせず静止することで、当局の摘発をかわそうとしたものだが、しだいに過激化していく。昭和40年代には、局部はもとより、性行為自体を見せる小屋が全国各地に出現していく。

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 ひとつ断っておかないといけないのは、すべての劇場が過激化していったわけではないこと。放埒(ほうらつ)の極みまで進んだのは大阪のストリップ小屋が多かったことから、略して「OS」、東京では昔から、「観劇」を逸脱しない小屋が優勢だったために「TS」と、おおまかに2つの流れに名が付いて、同時並行していった。客たちは劇場の名にこの頭文字のどちらかを認めれば大体の内容を想像できた。

 マリアが出会いがしらの事故のようにして業界に接した昭和50年代後半には、業界は狂騒の極みに達していたといえる。女性ストリッパー単独のダンスより、アクロバティックに男女が交わる「白黒さん」は、メインイベントに据えられていた。

控室に生後4か月の息子を寝かせ、舞台へ

 さて、ここからが、崖から飛び降りるくらいの決断に思えてしまうのだが、マリアは田村の突然の要求に即応えて、いきなり舞台に立った。私はもちろん聞いた。心構えも準備もなく?

「そんなの何もないよ。『おりゃ、出ろ~』って舞台出されて。そのまんま。とにかくね、(夫の)仕事がなくなるのが怖かった。仕事なんだから、やんなきゃって」

 私、仕事に真面目なんだよ、と笑うマリア。それは痛いほどよくわかる。このあたりこそ時代的限界を勘定に入れ、そのとき彼女ががんばりを発揮できる選択肢はどれだけあったかに思いを致すべきである。子どもを食わせられなくなることを、なにより彼女は恐れた。

 山あいの小さな小屋の控室に生後4か月の息子を寝かせ、ついにマリアは舞台に立った。1日に4回ステージ、それを数日続ける。田村への気持ちはもう冷めこの頃は、「だいっきらいだった」。それでも夫の誘導に合わせさまざまな姿態を見せ続け、幕間(まくあい)に息子に乳をやる。唯一の救いは、暴君が子どもをかわいがったこと。

「女はいても、向こうにとって初めての子どもだったのね。だから本当にかわいがっていた。だから、憎めないとこもあるのよ」。こういう男に限って、かわいげに映る隙をありありと自分に残しておく。

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