妻は高齢出産となることへの不安を私の前では見せてこなかったが、夫としてじゅうぶんにいたわって来ただろうか。「仕事に穴を開けることが心配だから、妊娠が安定期に入ってからは、出産までしばらく職場に復帰したいの」という妻の思いをあと押ししたつもりでいたが、安定期という言葉に私は油断していた。
それがいけなかったのか。なぜもっと早く異変に気づいて、病院に連れて行かなかったのか……あとから考えても仕方がないことばかりである。
「過去に起きたことや他人の行動は変えられない。だが、未来と自分は、これからいくらでも変えることができる」
これは、「夕刊フジ」の長期連載「心の健康相談室」で回答している、横浜労災病院勤労者メンタルヘルスセンター長の山本晴義医師が、折りに触れてアドバイスしているマイナス思考からの脱出法だ。まさかそれが自分の身に降りかかるとは思ってもみなかった。
シーンとした廊下の向こうから、麻酔科の医師が
待合室で時間が経過するうちに、負傷した若い女性が警察官に同行されて来た。子どもの付き添いで心配そうな表情を浮かべる両親もいた。何人かの急患が搬送されて来ては、治療室に入ってゆく。
コロナ感染の拡大で救急患者の受け入れ先が見つかりにくく、病院をたらい回しにされる人もいて、わが国の救急体制は極めて危険な状態であることがニュースで報じられていた。そうした中で、妻を受け入れてもらえたのは本当にありがたいことなのだ。そうだ。プラス思考でいこう!
さらに2時間ぐらい経っていただろうか。シーンとした廊下の向こうから、コツコツと靴音が近づき、麻酔科の医師がやって来た。妻がいる救急の処置を行う診療室に入るよう促(うなが)される。すべての検査が終わり、これから麻酔の注射を打って、帝王切開手術を行うということだった。
「今日産まれたら誕生日が七夕だね!」
室内に入ると、さまざまな機器につながれてベッドであおむけになった妻と目が合った。その周りをまぶしいくらいに明るい医療用のライトが照らしている。思わず妻の手を握った。その一瞬、ふんわりとやさしい笑顔になった。こういうときにかけてあげるべき気の利いた言葉が浮かばない。そして、時間の猶予はなかった。
「がんばってきて。大丈夫、大丈夫!」
あとの言葉は、胸がいっぱいで続かなかった。
とにかく手術がうまくいってほしい。その思いだけだった。ここで私が涙声になるわけにはいかないので、笑顔を作った。
すると、妻がなにか言いたそうに口を動かした。医師の許可を得て、酸素マスクを外してもらう。