文春オンライン

『電波少年』も『ボキャ天』も認めず…「あれはお笑いじゃない」ロンブー、ココリコ世代の“東京吉本芸人”たちのプライド

『東京芸人水脈史 東京吉本芸人との28年』より#2

2023/02/23
note

他事務所包囲網『ボキャブラ天国』と銀7

 銀7時代、テレビでネタ番組は皆無といった状態でした。『ボキャブラ天国』(以下『ボキャ天』1992~99年)がありましたが、乗り遅れたという感じです。東京吉本芸人で記憶されているのは「ダーティープレイメイト」ことモリマンくらいではないでしょうか? 銀7芸人たちは「ダジャレだし、自分たちのネタではない」と、出演に積極的ではなかったと記憶しています。

 モリマン・モリ夫さん ©文藝春秋

『進め!電波少年』(以下、『電波』1992~98年)もしかりです。猿岩石さんが「ヒッチハイクの旅」で大人気となりましたが、「あれはお笑いじゃない」と言っていた人が多かったと記憶しております。

『ボキャ天』に銀7芸人が出演していなかったこともあり、他の事務所の芸人とはほとんど交流がなかったと思います。『ボキャ天』メンバーを多数輩出したラ・ママは大盛況でした。毎日開催している銀7は天素が出演する時は完売するものの、それ以外の日には苦戦することも多く、お客さんが一桁の日も続きました。当時の在京プロダクションは吉本の東京進出をあまりよく思っておらず、銀7に他の事務所の芸人が出演したのは一度だけです。

ADVERTISEMENT

「なんで力を貸さないといけないんだ」ということです。例外的には東京NSCと人力舎の養成所JCAとの対抗戦が行われていたくらいです。

 当時の東京吉本は独自路線を走っています。『急性吉本炎』(のちに『慢性吉本炎』に改名・1995~97年)という番組があり、銀7芸人のネタのコーナーがありました。しかし、こちらも関東ローカルで深夜、しかも吉本芸人しか出ないということで、あまり乗り気ではなかったと思います。「ファンしか見てない」ということです。お客さんを笑わせることはもちろんなのですが、ネタつくりは関係者に見せるためという意識が強かったのではないかと思うのです。

 それは当時の銀7での芸人のプロデュースの仕方です。ネクストブレイクしかけている芸人に大箱を借りて単独ライブを打ち、多数の関係者を招待して、テレビブレイクにつなげていくという手法をとっていたのです。それで売れていったのがロンブーやココリコでした。

 ココリコの単独は、あとから動画を見せてもらったのですが、細い路地に挟まるおじさん(田中さん)を見つける小学生(遠藤さん)のネタが秀逸でした。この単独が評判となり、『いきなり!黄金伝説。』(1998~2016年)につながっていったと記憶します。そのため、銀7であろうが、公園通りであろうが、「単独ライブに関係者を何人呼べるか」というのが芸人のステイタスになっていました。