日本には制度上、移民はいない。しかし、悪名高い、技能実習生制度のもと、ベトナム人だけでも実習生は20万人近く。その一部は低賃金や劣悪な環境に嫌気がさして逃亡、不法滞在者の「移民」として日本のアンダーグラウンドを形成している。かつて中国人が主役だったアンダーグラウンドを、今、占拠しているのは、無軌道なベトナム人の若者たちなのだ。
ここでは、大宅賞作家・安田峰俊氏が「移民」による事件現場を訪ね歩き、北関東に地下茎のごとく張り巡らされた「移民」たちのネットワークを描いた渾身のルポ『北関東「移民」アンダーグラウンド ベトナム人不法滞在者たちの春と犯罪』(文藝春秋)より一部を抜粋してお届けする。(全4回の2回目/1回目から続く)
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ここ5年くらいでベトナム人が増えた
「ジエウなあ。あいつはうちで働いて5~6ヶ月で逃げたね。平成28年(2016年)4月8日の夕方におらんようになって、10日に警察署に失踪届を出した。資料が残ってるんよ」
初夏の陽光が波面によく映える日だった。2021年5月19日、中国地方の漁村で、瀬戸水産の経営者の川上雄司(社名・氏名ともに仮名)はそう話しはじめた。
北関東の茨城県古河市で無免許運転による死亡ひき逃げ事件を起こしたベトナム人女性のチャン・ティ・ホン・ジエウは、その4年8ヶ月前、技能実習生としてこの瀬戸水産で働いていたのだ。
漁村の規模は250世帯ほどだろうか。奥行き700メートルほどの小さな湾を囲んで広がる集落だ。地形は典型的なリアス海岸で、海沿いの家々を囲むように山が迫り、その中腹に由緒ありげな神社が数社ある。
集落の中心部に食堂や雑貨店は存在せず、村外れの自動車道のインター近くにコンビニが1軒あるだけだ。最寄りのローカル線駅までは約17キロ。村外に出る方法は1日の本数が10本にも満たない路線バスか、誰かの自家用車やタクシーに乗るしかない。
集落の主産業は、瀬戸内海の名産であるカキの養殖である。取材時点で45歳だった瀬戸水産の川上も、数年前に先代である父親から事業を引き継いだ。近所には似たような小規模経営の水産会社が何軒も並んでいる。空き地にはカキの成熟幼生を固着させるための、ホタテ貝を連ねた苗床が多数置かれ、白い貝殻が陽光に映えて眩しい。
「技能実習生は昔から働いてるけど、ベトナム人が増えたのはここ5年くらいかなあ。それまでは中国人。いまは、たぶん集落全体でベトナム人30~40人、中国人5~6人ぐらいの割合じゃろね」
社屋の2階にある小さな応接室に私を迎え入れた川上は、話好きで裏表のなさそうなタイプだった。部屋の片隅には、この家の子どもが数年前まで遊んでいたという足漕ぎ式のキッズカーや、室内用のジャングルジムがそのまま置かれている。