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賑やかな空気の商店街を歩いていると…

 そんな中で、いちばん賑やかな空気感が漂っていたのは、駅の北東側を東西に走る新橋通り商店会だ。大和で阿波おどりをはじめたのはこの商店街。商店街のちょっとした取り組みが、町全体の名を挙げることにもなるのだから、たかが……などといってバカにしてはならないのだ。

 その新橋通り商店会を歩いていると、そこから北に延びる路地沿いに何やらオトナ系のお店が並んでいる一角があった。安酒場やスナックの類いから、クラブ、そして風俗店らしき建物もある。大和と言えば、どちらかというと郊外の住宅地というイメージが強い。歓楽街的なゾーンとは縁遠い印象だ。だいたい、そういうものは20分程度で結ばれている横浜に任せておけばよさそうなもの。いったいこれは、どういうことなのだろうか。

 そういうわけで、このあたりで大和の町の歴史をたぐってみることにしよう。

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一面の桑畑に雑木林…“何もない寒村”だった「大和」に何が?

 大和という、なんだか縁起が良いというかたいそうな町の名前は、明治の半ばの1891年につけられた。当時はまだ市ではなく村で、鶴見村が大和村に改称した形だ。それ以前は下鶴間村・深見村・上草柳村・下草柳村という4つの村に分かれていて、互いに対立することもあったことから、“大きく和する”の意味を込めて命名したのだとか。いわば瑞祥地名の一種で、奈良の大和とは何の関係もない。

 明治時代は“村”だったということからも想像できるとおり、その頃の大和はまったく何もない寒村だった。

 鉄道などはとうぜん敷かれておらず、いまの大和駅周辺は一面の桑畑、あとは生い茂る雑木林。町という町はほとんどなく、いまの小田急線鶴間駅東側に矢倉沢往還の下鶴間宿が置かれていた程度だったようだ。いまでこそ、大和の中心は大和駅。だが、もともとは大和市域の一帯は、中核的な町を持たない村だったのだ。

 

 そんな大和にはじめて鉄道がやってきたのは、大正時代の終わり頃。1926年に神中鉄道(現在の相鉄本線)が大和駅を開業させ、1929年からは横浜と一本で結ばれるようになった。この当時、大和駅から横浜駅まではおおよそ1時間ほどかかっていたという。

 

 そして1929年には小田急線もやってくる。ただ、その頃は駅の位置が神中鉄道の駅と少し離れていて、小田急線は西大和駅と名乗っていた。両者の乗り換えには外を歩かねばならなかった。それでも横浜方面と東京方面、それぞれに通じる鉄道がやってきたのだから、交差地点の大和駅・西大和駅周辺には少しずつ市街地が形成されてゆくことになる。