鉄道開通後やってきたのは…
こうして交通の便が確保された中で、やってきたのは軍事関連の施設であった。鉄道の開通が相次ぎ、都市部との往来が便利になってきた相模原台地上には、昭和に入って次々に軍事施設が建設された。そのひとつが、いまの大和市内も含まれる厚木飛行場だ。いまでは米海軍の厚木基地になっているが、そもそもは1942年に完成した帝国海軍の飛行場。海軍航空隊も置かれ、帝都防衛の拠点として期待されていた。
つまり、大和の町は1930年代後半から40年代前半にかけて、軍都としての趣を強めていった。こうした中で海軍が主体となった都市計画も実行される。いくらか離れた場所に設けられていた神中鉄道と小田急線の駅が同じ位置にまとめられたのは1944年のこと。都市計画の一環という意味合いもあったのだろう。
急速に大きくなった“基地の町”の戦後
戦争が終わると厚木飛行場にはマッカーサーが降りたって、そのまま米軍の施設になった。連合軍の進駐に、暴虐の限りを尽くされるのではないかと町の人々はなかなかおびえたという。が、多少の諍いはあったものの、大きなトラブルが起こることはなかった。大和の町は、比較的スムーズに“基地の町”になったようだ。
ただし、まったく問題がなかったわけではない。そのひとつが、慰安施設だ。連合軍の進駐に備えてあちこちに慰安施設が設けられたのはよく知られたお話だが、厚木基地を抱えていた大和とて例外ではなかった。
大和の町中にもダンスホールを備えた慰安施設がいくつも現れた。『大和市史』によれば、ひとりの娼婦が1日に20人以上の米兵の相手をしなければならなかったというからなかなか厳しいエピソード。もともとこういった米兵向けの慰安施設は、戦前からの海軍兵向けの遊郭が転用されたという説もあるようだ。こういった慰安施設の名残が、大和の町中にある“オトナゾーン”なのかもしれない。
いずれにしても、こうして良くも悪くもアメリカの文化が大和の町に入ってきた。朝鮮戦争がはじまると、いっそう米兵相手の商売(慰安系のそれ以外も含む)も盛んになって、農村的な駅周辺の風景も大きく変わっていったのだった。