――2014年のブラジルW杯で日本代表はグループリーグすら突破できず、1勝もできずに敗退してしまいます。その時の日本代表へのバッシングの声は大きく、本田選手への批判もありました。
木崎 本田選手は日本代表の顔のような存在でしたし、実際にチームのやり方にもかなりコミットしていましたから批判は当然かなと。本人も「W杯で優勝する」というのを本気で目指していたので、鬼気迫る雰囲気がありました。だからこそ、あの敗退で挫折を味わったようです。後に本人から聞いたのですが、大会直後にアメリカを訪れ、ニューヨークの街を歩いていた時に「自分を肯定された気がした」ようなんです。元々変わり者扱いされていた本田選手だったのですが、アメリカでは変わっていることが当たり前で価値があった。そこでいろいろな価値観に触れ、新しい目標に向かうきっかけになったようです。
――それが、木崎さんの取材で本田選手が口にした「俺にとってサッカーは人生のウォーミングアップだ」というコメントに繋がっていくんですね。
木崎 あの時は僕にとっても転換期でした。長年続けていたサッカーの取材から少し距離を置いて、NewsPicksに所属してビジネスマン向けの記事を書き始めていたんです。本田選手もちょうどビジネス界へ本格的に参入しようとしていた時期で、新しい媒体に興味を持ってくれたのでしょう。時々取材に応じてくれることがありました。ただ、相変わらず話してくれないことも多かったですけどね。
本田選手との関係が変わったある”出来事”
――この時はまだ、いち記者として本田選手は取材対象だったんですね。ところが、今や木崎さんは本田選手が手掛ける事業を手伝うパートナー的な関係を築いています。どこから関係性が変化したのでしょうか。
木崎 きっかけは2016年の僕の誕生日でした。練習が終わってACミランの練習場から車で出てきた本田選手を捕まえて「誕生日なんだ。話をしてくれないか」と言ったら「車に乗って」と後部座席で並んで座ることになったんです。そのまま日本料理店で一緒に食事をしたのですが、その取材の中で「いつまでジャーナリストをやってるつもりなん?」と聞かれたんです。
――本田選手がヘッドハンティングしてきたんですね。
木崎 本田選手といっしょに何かするなら、もう彼のことは書けなくなると思いましたが、それでも本田圭佑という人間がこれから何をするのか、という興味の方が勝りました。抱えていた連載をストップしてもらって、本田圭佑とのプロジェクトを始めました。
――具体的にはどのようなことをやったのでしょうか。
木崎 実を言うと僕の力不足もあり、そこまで大したことはしていないんです。やったことといえば、本田選手のメールマガジンを書いてレベニューシェアしたり、インタビュー企画の聞き手を務めたり、記者時代にやっていることとあまり変わりませんでした。実際にはKSKグループの社員になったわけではないので、グレーゾーン的な立ち位置なんです。きっと、本田選手にとってすべてビジネスにしてしまうと新しいことが浮かんでこないので、僕はちょうどいい位置の“遊び場”なのでしょう。