女性が1人というクラスもあった
女性比率20パーセント以下の大学に入ったんだから当然の数字だろう、と思うかもしれない。厄介なことにこの女性比率、科類ごとになかなか偏りがある。例えば文三フランス語は男女同数のクラスが多く、逆に男性が多い科類のマイナー選択である理一ロシア語には、女性が1人というクラスもあった。
同数であれば、役割を担いたい人だけが“男子”“女子”をやればいいし、むしろ女が1人ならば、他の人たちは彼女を彼女個人として見るのではないか。勝手な推測に過ぎないが、当時のわたしは自分のいる男女比5対1の世界が、一番生きづらく感じた。完全に無視されることはないが、時々忘れられる存在。おそるおそる扱われるかと思えば、その見返りを求められる存在。大枠のノリが“男子”によって決められているときは大人しく黙っていることを望まれるのに、飲み会の頭数だったり、文化祭の店番シフトだったり、会話においての受け役だったりというときには、“女子”の役割をまっとうすることを期待されるのが嫌だった。
クラス飲み会での“ビンゴ大会”
入学してまもなくの頃、クラス飲み会の最中で行われたあのビンゴ大会は、生涯最悪の瞬間ランキング上位に今でも君臨している。
「5位の景品は……ボックスティッシュ! って、おい~(笑)」
ティッシュが当たったことの、何がそんなに面白いというのか。一瞬怪訝に思ってから、クラスの中でも、同じ中高一貫男子校出身の人間が数人爆笑しだしている意味、中には女子のほうを見遣って忍び笑いしている者がいることに思いをめぐらせたわたしは、やっと理由に思い至り、愕然とした。上品な読者のために念のため説明しておくと、男性のマスターベーション用という意味合いでボックスティッシュが景品に選ばれて、ギャグとして騒がれていたのであった。「わかるかな~」「いや~」と声を潜めている彼らを尻目に、その場を去れたならどんなによかっただろう。他の女子とアイコンタクトでそうした機微を共有しあうほどにはまだ仲良くなくて、彼女たちがわかっているのかわかっていないのかも判別できなかった。
わかっていてもわかっていなくても、その素振りをはっきり見せたら、彼らにとって格好のエンターテイメントとなったことだろう。下ネタで笑う空気も嫌だったが、そこに多分にあった、男だけの内輪感、その内輪を盛り上げる装置として使われている外野としての自分、という状況が嫌だった。深夜終電で降り立った地元駅でドロドロの吐瀉物をうっかり踏んでしまったときの気分だった。吐いた奴が悪いのだが、回避できずにこんな目にあっている自分という存在が悪い、という気がしてくるあれ。そんな世界への行き場がない怒りに支配された。
金輪際クラスの飲み会に参加するまい、と固く誓ったし、実際彼らもノリが悪くてもっさりしたほうの東大女子には本当は興味がなかったと思うのだが、「今度の飲み会、他の女子来られないらしいんだけど、どう?」というお伺いはたまに来るのだった。マイノリティへの気遣いではあっただろうが、お互い不幸なコミュニケーションだった。