「髪切ったの?」と彼が話しかけてきた
「髪切ったの?」と彼が話しかけてきたとき、わたしは「うん、そうー」と答え、あまつさえ「ちょっと後ろ向いてくれる?」という要求に対しても、素直に応じてしまった。まさかそのあと、全身にゲロをぶちまけられるとは思わずに。
「ねえねえ、みんな見てよ。後ろから見ると、タカハシさんとそっくりじゃない?」
タカハシさんとは、ゼミに所属している、学年でも人気の美人の名前だった。
たぶん、彼にはわたしを馬鹿にする意図はなかったのだろう。ただ、女の見た目を自由に品評できると思っていて、前から見たら似ても似つかない2人が、髪型一つで同じになることが面白くなってしまっただけなのだろう。それは別にそれほど面白いことではなく、かといって目くじら立てて抗議するようなハラスメント発言にも聞こえないものだった。同意を求められた他の男子たちも曖昧に笑って流し、その時間はすぐに過ぎ去って、いつの間にか他の女子たちも教室に来ていて、先生も来て、ゼミはいつも通りに終わったはずだ。わたし自身、曖昧に笑って、席について、みんなと議論をして、家に帰った。でも、生涯最悪の瞬間ランキングにおいて、この出来事は、飲み会ボックスティッシュ事件よりもはるか上位に君臨している。こんなにも恥ずかしげもなく、意地悪さもなく、「男は女の顔をジャッジしていい」というゲロを浴びせられたのが、むしろショックだった。わたし個人に対する敵意や悪意ならまだ許せた。彼は単に思ったこととしてそれを言う権利が、自分にあると思っているだけだった。そういう人間と同じ空間にいるのが、やるせなかった。
怒れなかった本当の理由
本当はあのとき、わたしは怒らなければならなかった。それができなかったのは、あまりにもショックだったのもあるが、きっとわたし自身が、心の中で自分も含めた人間をアリ/ナシに分けていたからだとも思う。彼がわたしをナシとするのは客観的に正しいがその言い方はないだろう、と感じていただけなのだ。思っているのと口に出すのには果てしない差があるとしても、わたしと彼が同種の人間ではない、とまでは思えない。男だったら同じように、アリ/ナシで笑っていたと思う。女の自分も曖昧に笑っていれば、女としてナシだとしても彼らの仲間に入れるような気すらしていたのだろう。「男」のできそこないとして。
しかし、やはりわたしは男ではない。