私が弁護士として腐心している間も、石井さんの国会での活躍は華々しいものでした。
尊敬する石井紘基元衆議院議員が“暗殺”
司法試験に合格する前年、石井さんは2度目の衆院選で当選を果たしていたのです。正義感の塊のような人で、国家の不正にも真正面から切り込み、国会の「爆弾男」として問題を追及する姿、地下鉄サリン事件の被害者支援に取り組む姿も、マスコミなどで大きく報じられていました。
けれども、石井さんは突如、その一生を終えることになります。
2002年10月25日、ニュース速報が駆け巡りました。
「衆議院議員、刺殺」
そこには、石井紘基の名前がありました。私が来る日も来る日も送り迎えをしていた世田谷の自宅の前で、暗殺されてしまったのです。
「金銭トラブル」。犯人は当初そう言い、検察もそう主張しましたが、そんなわけはありません。
その日は石井さんが国会質問の書類を提出する日。カバンの中に入っていたのは、国家の不正を追及するための書類でしたが、事件現場のカバンからは、その書類が持ち去られていました。そして、その後も発見されることなく、闇に消えたままになっています。
石井さんの無念を思うに、今も悔しくてなりません。
当時、明石で弁護士をしていた私は、突然の悲報に驚き、すぐに東京へと駆けつけました。そして通夜や葬儀などを手伝いました。その後の偲ぶ会では友人代表の1人として挨拶も行い、久々に昔の仲間たちにも再会することになりました。
そこで私は周囲の方々から石井さんの遺志を継ぐよう説得され、そのこともあり、その翌年に、政治の道に進むことになったのです。
2003年の衆院選、石井さんの所属していた当時の野党第一党である民主党から出馬。奇しくも石井さんがかつて予言したとおり、私が40才になる年のことでした。
そして総選挙で当選し、国会議員になりました。
マスコミで感じた虚しさ、弁護士としての限界。子どものころから社会の冷たさを痛感してきた私は、石井さんの正義感を引き継いで、国民に寄り添う政治家として、「社会を変えていく」立場になったのです。
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